班超の部下は、この李邑を捕へて讒言の復讐をなさんことを勸めたが、班超は「内省不[#レ]疚。何※[#「血+おおざと」、第4水準2−88−4][#二]人言[#一]」とて、李邑をよく待遇した。かかる度量あればこそよく人和を得て偉功を奏し得たのであらう。
班超に就いて尚ほ記憶すべきことは彼の一門に人物の多いことである。男といはず、女といはず、彼の一門には人物が多い。かく人物揃ひの一門は世に儔《たぐひ》稀であらうと思ふ。其略系は次の如くである。(姓名の右側に○を施してある者は文に傑ぐれ、△を施したのは武に秀でた人である。)
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┌班※[#「女+捷のつくり」、第4水準2−5−61]※[#「女+予」、第3水準1−15−77][#「※[#「女+捷のつくり」、第4水準2−5−61]※[#「女+予」、第3水準1−15−77]」に白丸傍点]
└班穉[#「班穉」に白丸傍点]―班彪[#「班彪」に白丸傍点]┬班固[#「班固」に白丸傍点]
├班超[#「班超」に白三角傍点]―班勇[#「班勇」に白三角傍点]
└班昭[#「班昭」に白丸傍点](曹大家)
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班※[#「女+捷のつくり」、第4水準2−5−61]※[#「女+予」、第3水準1−15−77]は西漢の成帝の女官で、古有[#二]樊姫[#一](周代の賢婦人)、今有[#二]班※[#「女+捷のつくり」、第4水準2−5−61]※[#「女+予」、第3水準1−15−77][#一]と評された程、婦徳の高い人である。怨歌行、自悼賦等はその文才を窺ふに十分である。班彪は實に『漢書』の起稿者で、またその北征賦、王命論の作者として聞こえて居る。班固は歴史家として文章家として、支那有數の人、殊更に紹介するを要せぬ。班昭は支那一流の女教育家である。曹世叔の妻となつたが、世叔早世の後、和帝の信任を受け、宮中に入りて皇后以下、諸女官の師匠となつた。宮中彼を尊びて大家(先生)といふ。故に曹大家として當時に知られて居る。彼は女子教育の目的で『女誡』七篇を作つた。この『女誡』は支那に於ける『女大學』である。班昭は又『漢書』の編纂に關係して居る。『漢書』は班彪が起稿し、班固が實に編纂したけれど、その八表及び天文志だけは、兄の死後に、班昭が續成した。故に『漢書』は班氏の父子兄妹三人の手を經て、完成した譯である。班昭の文才の高きことは、さきに紹介した爲[#レ]兄求[#レ]代疏一篇でも證明することが出來る。實に學徳才三絶の賢婦人と申さねばならぬ。班勇は父班超の死後、順帝(章帝の曾孫)の世に朝廷の命を受けて、龜茲、疏勒、莎車、于※[#「門<眞」、第3水準1−93−54]等十七國を征服した。故あつて中途にして召還されて、十分の偉功を奏することが出來なかつたが、兔に角東漢の西域經營の最後を飾つた一人である。彼も亦文筆の嗜あつて、今の『後漢書』の西域傳は、多くその記録に本づいたものと傳へられて居る。
[#地から3字上げ](大正六年一月十七日―十九日『大阪朝日新聞』所載)
底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店
1968(昭和43)年2月13日発行
底本の親本:「大阪朝日新聞」
1917(大正6)年1月17日〜19日発行
※本居宣長の言葉として引かれている「唐人と人はいへども、唐人のたぐひならめや、孔子はよき人」は、『本居宣長全集』筑摩書房、第十五巻所収「鈴屋集」には、「せい人と人はいへとも聖人のたくひならめや孔子はよき人」とあります。
※底本の略系図では、「※[#「女+捷のつくり」、第4水準2−5−61]※[#「女+予」、第3水準1−15−77][#「※[#「女+捷のつくり」、第4水準2−5−61]」と「班穉」を「│」で繋ぎ、夫婦のように扱っていましたが、正しくは姉弟であるので、記号の用い方を改めました。
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2002年1月15日公開
2004年2月22日修正
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