v※[#二の字点、1−2−22]隆昌したことを記したもの。
(第三) この記念碑建設の費用を喜捨した、伊斯の徳行を敍したもの。
(第四) 韻文で上來三段の記事と、略同樣のことを頌したもの。
されど碑文の解釋は、今日の講演の目的でない。今日の講演の目的は、景教碑の來歴を紹介するに在る。
さてこの景教碑の建設の後ち六十年許りで、徳宗の玄孫に當る武宗の時代となる。武宗は所謂三武の一人で、道教を崇信する餘り、佛教を始め諸外教に對して激烈な壓制を加へ、その會昌五年(西暦八四五)には、ネストル教及びゾロアスター(Zarathustra)教(※[#「示+天」、第3水準1−89−22]教)の僧侶を併せて、二千餘人或は三千餘人を還俗せしめ、外國出身の僧侶は、多くその本國へ送還させた。多分この時に、義寧坊に在つた大秦寺も廢毀せられ、その境内に建立された筈の景教碑も打ち倒されたものかと想ふ。勿論當時の記録に、景教碑の打ち倒された事實や年代が明記されてはないが、しかく想像するより外に、適當な解釋を下すことが出來ぬのである。支那では通例古碑の刻字は、天然や人爲の種々の事由によつて、磨滅毀損を受ける筈であるが、
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