m信を缺いて居つた。
 私は明治四十二年の春に歸朝して、京都帝國大學に奉職することとなり、同年の秋に同僚の上田教授と同伴で、丸善の支店に出掛けた所が、新着のホルム氏の『ネストル教碑』といふ一小册があつた(43)。片々たる小著ではあるが、ホルム氏自身の關係した景教碑事件の顛末を書いてあるから、私にとつて中々棄て難い。殊にこの書によつて、ホルム氏の持ち出したのは模造碑である事實を確め得て、二年來の景教碑に關する疑團も始めて氷解した。
 このホルム氏はデンマーク人で、千八百八十一年にコペンハーゲン(Copenhagen)で生れた。父は外交官であつた關係もあらうが、彼は早く海外生活を營み、義和團の亂の直後に、支那や日本で新聞記者となつた。日本では横濱の Japan Daily Advertiser に勤務して居つたといふ。千九百五年に歐洲に歸つて、暫くロンドンで記者生活を續けたが、千九百七年(明治四〇)の一月に、支那に出掛けて景教碑を買收するか、若くばその原碑を模造する計畫を建てた。かくて彼は米國を經て支那に渡り、その年の五月二日に天津を發し、同月三十日に西安に到着した。六月の十日に彼は始めて
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