閧ェ發掘されると、金勝寺の一隅に移され、碑亭の中に安置されたが、碑亭は何時となく廢※[#「土+己」、第3水準1−15−36]した。咸豐九年(西暦一八五九)に韓泰崋《カンタイクワ》といふ者が、訪碑の機會に、重ねて碑亭を建ててこの碑を保護した。その七年後に、ウイリアムソン等の來觀した時には、その碑亭が依然儼存して居つたといふ(37)。所がこの時代から、陝西・甘肅にかけて、十年に亙るマホメット教徒の大騷亂が起つて、西安の金勝寺もこの時燒き拂はれたから、碑亭も恐らく同樣の運命に罹つたものと想はれる。兔に角千八百七十二年に、有名なドイツの地理學者リヒトホーフェン(Richthofen)が、金勝寺の景教碑を來觀した時には、已に碑亭の跡形もなくなつて居つた(38)。要するに千八百七十年前後から、景教碑は瓦礫縱横の間に、風雨の剥蝕に放任するといふ有樣で、尠からず心ある歐米人を憂慮せしめた。殊に英國では、この問題が尤も憂慮せられて、バルフォア(Balfour)やラクーペリ(Lacouperie)の如き學者は、前後してロンドンの『タイムス』紙上に、英國の外務省が支那政府に交渉して、この碑を英國博物館に引き
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