ェ出來た。ホルム氏が態※[#二の字点、1−2−22]歐洲三界から出掛けて、幾多の金錢と勞力とを費しながら、單なる模造碑(Replica)のみに滿足して歸る筈がない。黄白に目のない支那官吏を買收するのは容易の業である。碑林に移されたのが Replica で、ホルム氏の持ち出したのが原碑に相違ないと主張する者が尠くない。
 かかる風説の高まるに從ひ、支那官憲も大分心配し出した。漢口の税關にその差押へを命じたとか、調査の爲に官吏を派遣したとか、蜚語紛々といふ有樣を呈した。支那の學者達も不安を感じたと見え、學部の陳毅君などは、態※[#二の字点、1−2−22]私の寓居に駕を枉げて、私の意見を徴された。幾多の在留日本人からも、同樣の質問を受けた。されど私は之に對して、何等の決答を與へ難い。實をいふと、西安旅行の當時、私は後日かかる重大な問題が發生すべしとは豫期せなかつた。碑林に移轉された景教碑は實見したけれど、かかる疑問に答へ得る程注意して檢査せなかつた。ホルム氏の持ち出した石碑には出遇つたけれど、その實物は親覩せなかつた。口では碑林の原物たるべきを唱へつつ、心ではその反對説を排するだけの、積極的確信を缺いて居つた。
 私は明治四十二年の春に歸朝して、京都帝國大學に奉職することとなり、同年の秋に同僚の上田教授と同伴で、丸善の支店に出掛けた所が、新着のホルム氏の『ネストル教碑』といふ一小册があつた(43)。片々たる小著ではあるが、ホルム氏自身の關係した景教碑事件の顛末を書いてあるから、私にとつて中々棄て難い。殊にこの書によつて、ホルム氏の持ち出したのは模造碑である事實を確め得て、二年來の景教碑に關する疑團も始めて氷解した。
 このホルム氏はデンマーク人で、千八百八十一年にコペンハーゲン(Copenhagen)で生れた。父は外交官であつた關係もあらうが、彼は早く海外生活を營み、義和團の亂の直後に、支那や日本で新聞記者となつた。日本では横濱の Japan Daily Advertiser に勤務して居つたといふ。千九百五年に歐洲に歸つて、暫くロンドンで記者生活を續けたが、千九百七年(明治四〇)の一月に、支那に出掛けて景教碑を買收するか、若くばその原碑を模造する計畫を建てた。かくて彼は米國を經て支那に渡り、その年の五月二日に天津を發し、同月三十日に西安に到着した。六月の十日に彼は始めて
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