謔驍ラしといふ希望を披瀝した(39)。中にもスティヴンソン(Stevenson)といふ支那在住の宣教師は、實地に就きて景教碑を探訪した後ち、千八百八十六年九月の『タイムス』紙上に、大略左の如き手嚴しい書を寄せて居る(40)。
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世界に遍ねく其名を知れた景教碑を、今日の儘に、自然の破壞と人爲の毀損とに對して、何等保護する所なく、荒蕪の間に暴露せしめて置くことは、實に十九世紀の大恥辱といはねばならぬ。吾人はわが當局者が、然るべき手腕家を派遣して、北京の支那官憲に説き、この貴重なる古碑を英國博物館に轉交して、安全なる保護を講ずることに同意せしむる樣盡力せんことを、衷心より希望する。若しこの計畫が實行し難いならば、在北京の外交團諸君の盡力により、支那官憲に勸めて、責ては一の碑亭を建てて、この碑の保護を圖る樣にさせたい。今日に當りて何等か適當な方法を講ぜなければ、この貴重なる景教碑も、早晩廢※[#「土+己」、第3水準1−15−36]するに至るであらう。
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多分この氣運に刺戟されて、支那在住の英國人を中心として上海に組織された、皇立アジア協會支部(China Branch of Royal Asiatic Society)でも景教碑保護を決議し、且つその具體的運動に着手し、千八百九十年の二月に、その支部長のヒュース(Hughes)から、北京の外國公使團の主席のドイツ公使ブランド(Brandt)宛に、外交團の盡力によつて、景教碑の保護を支那政府に勸告せんことを申出でた。この申出では快諾され、ブランドは總理衙門にも、また慶親王以下の軍機處の王大臣にも、アジア協會支部の希望を傳達した(41)。その結果中央官憲から西安の地方官憲に命令して、完全な碑亭一宇を建設せしむることになつた。碑亭の建設費として銀百兩支出されたといふが、例の支那官場特有の中飽の爲、千八百九十一年に出來上つた碑亭は、至極粗末な建物で、一年程の間に風に吹き倒されて、景教碑はもとの雨曝の状態となつた。ベルリンのフォルケ(Forke)教授が、その翌年の五、六月の交に、西安に出掛けた時には、碑亭は已に跡形もなかつたというて居る(42)。かくて景教碑はその後十五、六年にして、私が景教碑を往觀した頃まで、依然同一の状態に在つた。
私は明治四十年の秋に、宇野文學士――今の東京帝國大
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