j」は縦中横]この碑のシリア文に、唐の國都の長安のことを、クムドン(Kumd{a}n)又はクムダン(Kumdan)と記してある。クムダンとは、唐時代を通じて、東ローマ人やマホメット教徒が、長安を呼んだ名稱であるが、何が故に長安をしかく稱したかの十分なる解釋は、未だ學界に發表されて居らぬ。私はクムダンとは、長安の通稱たる京城の音譯の轉訛したものと確信して居る(32)。そは兔に角、明末支那に布教して居つた人々は申すに及ばず、西暦十七世紀初半の歐洲の學者でも、クムダンの長安たることを知り得なかつた筈である。それに拘らず、この碑に長安に對してクムダンの名稱を使用して居る事實は、この碑を明末の偽作とする疑惑を、一掃せしむべきものと思ふ。
(八)[#「(八)」は縦中横]敦煌地方から發掘された遺書の中から、『景教三威蒙度讚』や『一神論』の如き、唐時代に漢譯された景教の經典が世間に現はれて來た(33)。此等の遺書は、景教が唐時代に流行した事實を裏書し、併せて景教碑の眞物たることを確保する。
(九)[#「(九)」は縦中横]殊にその漢譯の景教の經典中に、景教碑に見える阿羅本や景淨のことを記載してあつて(34)、經典と碑文とよく一致することは、この碑の眞物たることを、保證すべき鐵案と申さねばならぬ。
 かくて西暦十七世紀の半頃から十八世紀を經て、十九世紀の半過ぎまで、約二百餘年の間に亙つた、景教碑に關する疑惑の暗雲が次第に晴れて、最近五六十年來、かかる懷疑的學者が殆ど跡を絶つた。これと共に、景教碑の保護保存といふ問題が、次第に擡頭して來た。已に西暦千八百五十二年に、米國のサリスブリ(Salisbury)教授は、「西安のネストル教碑の眞僞について」と題する一論文を公にして、その中に、景教碑が明末清初の際に、キリスト教の宣教師によつて歐洲に紹介されて以來、今日まで二百年の間、一人も親しくこの碑を覩た人がない。從つてこの碑は目下如何なる状態にあるかは勿論不明で、碑が果して今日に現存するや否やすら不確である。今日の急務は、中立公平の人を派して、親しく西安に往きて、この碑の存否と眞贋とを檢査せしむるに在る。このことの實行される迄は、景教碑の眞贋に關する絶對的斷案は下し難いと述べて居る(35)。
 サリスブリ教授の主張は、アメリカ東洋協會の容るる所となつた。千八百五十二年十月に、同協會は次の如き決議
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