大師は青龍寺の惠果阿闍梨に晉謁して、遂に同阿闍梨より、眞言宗を傳授さるることとなつた。青龍寺は西明寺とは反對に、左街の東邊の新昌坊の南門の東に在つた。土地は高く、展望は廣い。北宋の錢易の『南部新書』戊に、
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長安戲場多集[#二]于慈恩[#一]、小者在[#二]青龍[#一]、其次薦福・永壽。
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とあれば、可なり群衆の雜沓した場所らしい。大師がこの寺で密教を傳へられた關係から、爾來我が入唐の大徳は、慈覺大師でも智證大師でも、みな青龍寺に留錫するといふ風に、我が國の佛教と關係の尤も深い寺である。この寺も武宗の時、一旦は廢絶されたが、一年ならずして再興せられ、格別の迫害を受けずに、法運を維持することが出來た。『咸寧縣志』卷十二に、
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石佛寺即唐青龍寺、在[#二]祭台村[#一]。
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とあれば、青龍寺は後に石佛寺と名を變へて、嘉慶時代まで存在したものと見える。祭台村は今の長安縣の西南郊外、我が一里強に當る。私は長安へ出掛けた時分に、未だこの事實を承知せなかつた爲め、石佛寺を探訪せず、今日まで遺憾千萬に思ふ。私の前後に長安に出掛けた人々が尠くないが、誰も石佛寺の現状を審にせぬ樣である。{その後大正十三年の夏に、眞言宗の青年僧侶の和田辨瑞君が、私のこの論文に刺戟され、態※[#二の字点、1−2−22]長安に出掛けて青龍寺の舊蹟を踏査し、石佛寺――今は祭台村の小學堂になつて居る――の現状を始めて傳へられた。大正十四年二月發行の『新興』といふ雜誌に、その大要が紹介されて居る。近頃、大正十四年九月の『宗教研究』に、常盤大定博士が、石佛寺を青龍寺の舊蹟とする説を否定されたとか仄聞したが、不幸にして未だ寓目の機を得ぬ。私は今日でも石佛寺を青龍寺の遺址とする説を信頼して居る。何れ常盤博士の論文を閲讀した上で、それに對する批判を學界に公表したいと思ふ。}
さて大師はこの年の六月十三日に、始めて惠果阿闍梨に就いてから、二ヶ月を經たその八月には、早くも傳法阿闍梨位の灌頂を受けらるることになつた。私はさきに申述べた通り、眞言の教義には全く不案内であるが、かかる短日月にして、かかる名譽ある灌頂を受けることは、極めて異常のことと思ふ。經範の『大師御行状集記』に、この時玉堂寺の僧珍賀といふ者が、再三この傳法に不平を唱
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