十一月の北風の吹く時で、之を冬迅というた。
日支間の航海にもこの風を利用すべきと思ふが、事實大師の時代には、餘り之を利用せなかつた樣である。この時代に日本から支那に出掛けるには、大抵夏期を選ぶ。光仁天皇の寶龜七年(西暦七七六)の閏八月に、遣唐使一行の上奏に、今既入[#二]於秋節[#一]、逆風日扇、臣等望、待[#二]來年夏月[#一]、庶得[#二]渡海[#一](『續日本紀』卷卅四)といへる通りである。現に大師等も七月六日に田浦を發船されて居る。支那から日本に歸るのは秋冬の交を選ぶ。これらは恆信風利用の點から觀れば、間違つて居ると申さねばならぬ。勿論恆信風以外に、低氣壓や潮流の關係や、その他の事情もあつて、簡單に斷定は出來ぬが、恆信風を利用する上から申せば、その反對に、春夏の交に支那から日本に、秋期に日本から支那に渡航する方が寧ろ安全便利と思ふ。
幾多の入唐僧侶の中で、尤も迅速なる渡海を遂げたのは、安祥寺の惠運和尚であらう。彼は仁明天皇の承和九年(西暦八四二)秋八月二十四日に、肥前國松浦郡|遠値賀《とほちか》島那留浦を發船し、正東風――實は東北風と見るべきである――に乘じ、僅に六晝夜にして浙江の温州の樂城縣(今の樂清縣)附近に到着いたし、滯在五年の後ち、承和十四年(西暦八四七)の夏六月二十二日に、明州(今の浙江省會稽道※[#「覲のへん+おおざと」、第4水準2−90−26]縣)より出帆して、西南風を利用し、僅々三晝夜にして、肥前國遠値賀島に歸着して居る。即ち往復ともに恆信風を利用した譯である。
高岳《たかをか》(眞如)親王に同伴して入唐した宗叡和尚は、清和天皇の貞觀四年(西暦八六二)の九月三日に、肥前の遠値賀島から東北風に乘じて帆を擧げ、途中一夜だけは逆風に苦しめられたが、その七日に早くも浙江の明州附近に到着した。貞觀八年(西暦八六六)歸朝の時は、六月に福建の福州(今の※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]海道※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]侯縣)より西南風に乘じ、五日四夜にして遠値賀島に到着して居る。これも往復ともに恆信風を利用したればこそ、かく容易な航海を遂げ得たのである。かく西暦九世紀の半頃となると、恆信風を利用した場合が多く見當るが、その五十年前の大師の入唐時代には、未だこの利用が十分に知られて居なかつた樣に思ふ。
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