、新洛陽は隋唐時代の都で西に在る。相距ること二十五{支那}里許といふ。その結果、漢の洛陽の西門外に在つた白馬寺が、上述の如く却つて唐の洛陽の東に當ることとなつた。大師時代の洛陽は、さして長安に劣らぬ繁華で、その城内を貫通する洛水の上に架せる天津橋は、實に肩摩轂撃の熱閙を極めたが、今は城外に淋しい名殘を存するのみである。洛陽の市街も殆ど見る影もない程淋れて居る。支那の數ある舊都會の中で、尤も衰微した都會の一つであらう。
 洛陽から西へ二日路で※[#「さんずい+黽」、第3水準1−87−19]池《メンチ》縣がある。ここから唐時代に有名な潼關に至るまで、支那の四百里、我が四十里餘りの間は、大體に於て黄河の南岸に沿ひ、山谷の間を行くので、道路は險惡で、雨天の際の旅行は實に困難である。※[#「さんずい+黽」、第3水準1−87−19]池から西の方一日程の所に、※[#「石+夾」、第4水準2−82−38]石といふ所がある。荒寥たる寒村であるが、長安と洛陽との往還には、是非共是處を通過せなければならぬ。丁度東西の谷底に當つて、車馬の通行頗る困難である。私が長安から洛陽への歸途に、その地を經過した時は、生憎の雨天で、險惡な道路が一層險惡となり、殆ど進退に窮した。殊に私はその兩三日前から發熱して、體温三十九度といふ病中を推しての旅行故、成るべく早く旅館に到着して、休養する必要がある。そこで見當り次第に馬を雇ひ、一臺の馬車に大小五六匹の馬を付けて行進したが、その※[#「石+夾」、第4水準2−82−38]石――※[#「石+夾」、第4水準2−82−38]石といふ地名は、日本の記録では『智證大師傳』に始めて見えて居る――へ今一息といふ所で、前方に行く重荷を滿載した支那商人の馬車が顛覆した。之が爲に、その後方に續く十臺許りの馬車は、何れも前進が出來ぬ。無論私の馬車も停頓せなければならぬ。路幅は狹く、泥濘は深く、馬車を引き起すことは中々六ヶ敷い。雨は激しくなる。夜は更ける。その間に三四時間も吹き曝され、夜の十時半頃にやつと※[#「石+夾」、第4水準2−82−38]石に着くと、唯一軒しかない宿屋は滿員で宿る場所がない。外國人だからとて無理に頼んで、不潔な支那宿の中でも、入念に不潔な宿屋の土間で一夜を過ごした。この苦しい體驗は今も忘れることが出來ぬ。この街道は今日に始まつた譯でなく、唐時代から同樣であつた
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