「さんずい+卞」、第3水準1−86−52]州で船を辭して、陸路に就かれたに相違ない。

       (B)陸路

 北支那の陸路を行くには所謂北馬で、馬車か乘馬に限る。身分ある人は大抵馬車を雇ふ。大使大師の一行は、勿論沿道の支那の官衙で準備してくれた、馬車を使用されたことと想ふ。支那の馬車は二千年前も今日も格別の相違がない。東漢時代の石彫に見えて居る馬車や、六朝時代の陵墓から發掘された馬車の模型と、十二三年前に、私が支那内地旅行の時乘用した馬車と略同一である。大師入唐時代の馬車も、大體同樣と認めねばならぬ。それは隨分窮屈なものである。
 支那に於ける陸路の交通は、水路に比して概して不愉快と申さねばならぬ。第一に道路が非常に惡い。殊に車馬の往來頻繁な北支那の道路は一層甚しい。道路の中央は破損されてその儘に、可なり深い凹字形になつて居る。都會の道路でも、降雨後は二三日位晴天が連續しても、その中央は池沼の樣になり、ここに水鳥が遊泳いたし、人間はその兩側の小高き所を歩行する有樣である。田舍の道路は一層で、雨が降ると、二尺も三尺もある深き泥濘となつて、事實車輪の半ばを沒する程である。我が國の道路の惡い事も隨分評判高いが、それでも支那の道路に比しては、霄壤の大差がある。唐時代には※[#「さんずい+卞」、第3水準1−86−52]州・洛陽・長安街道は、幾分今日よりは良好であつたかも知れぬ。併し大した相違のある筈がない。地質上已を得ざる點もある。かかる有樣であるから、雨天の日には支那人は概して旅行を中止して、客舍で一日を空費する。されど我が大使大師の一行は、急ぎの旅とて、私共がこの方面を旅行した時と同樣、雨を衝き風を冒して一向に前進を繼續せられ、從つて尠からざる辛苦を嘗められた筈である。
 右の如き惡道路を支那馬車は、石が出て居つても、水が溜つて居つても、一切構はずに進行するから、乘客は不斷の地震の裡に旅行を續ける有樣である。馬車の中で書見する事も、居睡することも出來ぬ。うつかり居睡すると、否やといふ程、頭を馬車の箱に打ち付けねばならぬ。頭痛持の人では一寸旅行が六ヶ敷い。しかのみならずこの馬車は度々顛覆する危險がある。速度の遲いに拘らず、よく馬車が顛覆する。
 馬車の旅行に就いても面白い插話がある。私と今東京帝國大學に在勤の某教授と二人連で、洛陽から長安へ旅行した途中での出來事であ
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