當時内外商賈の輻輳する所で、遠くアラビア(大食)ペルシア邊の外商も尠からずここに來集した。彼等の間には揚州はカンツウ(Kantou)として知られて居る。カンツウとは揚州の別名である江都を訛つたものと思ふ。ここには日本人や朝鮮人も多く來集した。揚子江沿岸へ入港する日本人朝鮮人は勿論のこと、揚子江以南の地へ入港する日本人朝鮮人も、皆揚州を通過して、洛陽や長安に出掛けた。自然揚州でアラビア人やペルシア人が、日本人朝鮮人のことを見聞する機會が多い。さればこそ唐の中世頃、即ち西暦九世紀の半頃のアラビアの地理書に、日本朝鮮の記事が始めて登録さるることになつた。それには日本をワークワーク(〔Wa^kwa^k〕)としてあるが、ワークワークとは倭國を訛つたもの、朝鮮をシーラー(〔Si^la^a^〕)といふのは、新羅の音譯であらう。
此の如く運河の道筋には名都舊蹟が甚だ多いが、大使大師の一行は、一向に前途を急がれた。藤原葛野麻呂の復命に、
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星[#(ヲイタダキテ)]發星宿、晨昏兼行(『日本後紀』卷十二)。
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とある通りである。こは福州にて意外に時日を空費したから、成るべく年内に長安に到着して、使命を果さうといふ理由に本づくと思ふ。事實福州から長安まで約五千三百{支那}里――『元和郡縣志』に五千二百九十五里とある。『日本後紀』に此州(福州)去[#レ]京七千五百廿里とあるのは、間違と斷ぜねばならぬ――の長途を、四十八九日で旅行することは、支那の旅行としては、中々|忙敷《あわただし》いので、我が一行は蘇州にも、揚州にも、一日の滯在見物する暇なかつた筈と想像される。併し大師は歸朝の日も、この同一道筋をとられ、この時は往路程前路を急ぐ必要なかつた筈故、多分此等の都會を一日位は觀光されたかと想ふ。
私もこの杭州揚州間の運河は、一部分知つて居る。その一部は汽船で、一部は支那船に乘り込んで旅行した。故に大師の御旅行の氣分は可なり味はふ事が出來る。支那では陸路の交通より水路の交通の方が、概して安樂ではあるが、これにしても人知れぬ困難が伴ふ。第一は飮料水の不潔である。支那では日本の樣な清冽な水に乏しい。運河の河筋では皆河水を使用するが、それが頗る不潔である。之に就いて私の體驗した面白い話がある。この席上での話としては、幾分不作法であるが、容赦を願ひたい。
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