出來ぬ。
三國西晉以降は、五胡跋扈の時代で、無頓著な支那人すら、神州陸沈、華胄左衽と憤慨して居る時代であるから、事々しく茲に贅する必要がない。唐の太宗は古今の英主である。天下併合の後ち、異族に對しては、武斷主義を實施する素志もあつたが、當時の大臣の兵凶戰危の説に動かされて、遂に懷柔和親策を執ることとなつた。唐一代の間、四裔の君長に、請ふが儘に所謂和蕃公主を下嫁せしめたのは、この政策の結果である。「美人天上落。龍塞始應[#レ]春」と詠はれた永樂公主も、「九姓旗旛先引[#レ]路。一生衣服盡隨[#レ]身」と詠まれた太和公主(?)も、皆この政策の犧牲となつた和蕃公主である。しかし貪婪※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]くなき夷狄は、通婚のみで羈縻されるものではない。朝に公主を送ると、夕に金帛を求むるといふ有樣であつた。結婚と贈遺とによつて異族を緩和して、その劫掠を免るるといふのが、漢・唐――漢族の國威の尤も揚つたと稱せらるる――を通じて、對異族策の大方針であつたが、結果はやはり不首尾で、羽檄の飛ぶことも、烽火の擧ることも、依然として減少することがなかつた。
宋に於ける契丹・西夏・女眞、明に於ける北虜・南倭の事蹟も、茲に絮説を要せぬ。元・清二代は、天下を擧げて異族の臣妾となつた時代、固より批評すべき限りでない。過去二千年の積弱累辱此の如しとすれば、この間に在つて、南は越人を服し、北は匈奴を攘つて、盛に殖民政策を實行した始皇は、確に中國民族の一大恩人といふべきである。殊に種族革命の成功した中華民國の今日、始皇こそ百代に尸祝さるべき偉人であるまいか。
十
私は已に始皇帝の内外の事業を敍述したから、茲に彼の人物に就いて一言いたさう。始皇は細心にして放膽なる政治家であつた。更に又よく己を虚くして人に聽き、衆に謀つて善く斷ずる政治家であつた。『史記』に始皇帝の政治振りを載せて、天下の事大小となく、皆自身で裁決して、臣下に委任せぬ。その日所定の裁決を終らぬと、夜中になつても休息せぬと記してある。或は之を以て彼が權勢を貪る故と、非難するのは間違ひである。主權を人に假さぬのは法家の極意で、刑名學を好んだ蜀漢の諸葛亮が、細事を親裁したと同樣、寧ろ始皇の勤勉細心なる證據とすべきである。
始皇は細心であると同時に大膽であつた。六國を滅ぼした彼が、如何にその遺族舊
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