のことである。この種族は上古から絶えず漢族を劫掠して、尠からざる迷惑を加へて居る。周の祖先の古公|亶父《タンポ》が、岐山へ避難したのも、※[#「けものへん+熏」、第4水準2−80−53]鬻の爲である。西周末の詩人が、靡[#レ]室靡[#レ]家と嗟嘆したのも、※[#「けものへん+僉」、第4水準2−80−49] ※[#「けものへん+允」、第4水準2−80−30]の爲である。始皇帝は天下一統の後ち、蒙恬《モウテン》を將として兵三十萬を率ゐて匈奴を征伐せしめて、悉く之を黄河以北に驅逐した。攘ひ斥けた地面に三十四縣――或は四十四縣とも傳ふ――を置き、ここに漢族數萬家を移住せしめ、所謂萬里の長城を築きて、華夷の疆界を嚴重に限定した。
北狄の侵入に對して長城を築くことは、必ずしも始皇帝の時に創つたのではない。『詩經』によると、西周の末頃から、朔方に城きて※[#「けものへん+嚴」、第4水準2−80−56]※[#「けものへん+允」、第4水準2−80−30]を防いで居る。降つて春秋戰國の交から、秦・魏・趙・燕等北邊の諸國は、相繼いで北狄を防がん爲に、長城を築いたことがある。始皇帝は幾分これら以前の長城を利用して、萬里の長城を作つたものと見える。その萬里の長城は、今の甘肅省鞏昌府附近から起つて、黄河の外を廻り、今の山西・直隷二省の北邊を縫うて、盛京省の東部に達したのであるから、勿論今日現存の長城とは、大いに相違して居る。今日の長城は、秦以後西漢・後魏・北齊・北周・隋・明時代に渉つて、幾度となく増築又は改築されたものである。
八
〔領土の膨脹〕 かく南に北に異族を攘うて土地を拓いた結果、始皇帝時代に於ける漢族の版圖は、空前に擴大された。儒者は唐虞三代を黄金時代と稱揚するけれども、その時代の漢族の勢力圈は、甚だ狹隘であつた。周時代でも、漢族の根據地の所謂中國は、黄河の左右に限られ、今の地理でいへば、大略河南省の全部と、陝西・山西・直隷・山東・湖北の一部に過ぎぬ。殊に白狄・赤狄を始め、犬戎・小戎・驪戎等の異族の、その間に雜居するもの多く、齊・秦・楚・呉・越等邊裔の國となると、言語風俗など隨分漢族と相違して居つたのである。秦の始皇帝が四圍の異族を攘うてから、漢族の勢力範圍は、周の初に幾倍し、その四十郡――もとの三十六郡に、後に拓いた四郡を加へて――の廣袤は、殆ど今の支那本
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