度改革を實行した場合も尠くない。併しかかる場合でも、支那人は決して在來の制度を捨てぬ。舊の制度はその儘に保存して、新しき制度をその上に添加するのである。支那人の改革は要するに新しきものを増加することで、舊きものを廢止したり、乃至之を改良することを意味せぬ。歐陽脩などは、唐の官制を精而密とか、簡而易[#レ]行とか、盛に賞讚して居るが、その實、唐の官制は周と秦・漢と、三國以來の新官制とを、殆ど取捨を加へずに合同したもの故、その官制には主義も精神もなく、冗官重複頗る多い。之に比較すると、わが太寶の官制の方が、遙に簡にして要を得、出藍の譽を受くべき資格が十分にあると思ふ。
 清朝の兵制の變遷を見ても同樣である。清朝は最初緑旗(緑營)の兵で地方を守備し、八旗の兵は一面皇城の守備に當り、一面地方の緑營の監督をした。この緑營と旗兵で天下を彈壓したが、時を經る儘に、旗兵も緑營も腐敗して、實戰に間に合はぬ樣になる。長髮賊の起つた時には、各地方で義勇兵が組織されて、これが旗兵・緑營以上の手柄を建てた。そこで亂後もその義勇兵(勇兵)をその儘に保存して、一團の常備軍が出來上つた。併し從前の旗兵や緑營に手を着けぬから、つまり二重の兵制を維持せなければならぬことになつた。日清戰役後、支那で段々洋式の新軍が組織される樣になつても、矢張り從前の兵隊を全く解散せぬ。
 支那人の遣口《やりくち》はすべてこれである。故に支那には嚴密の意味の改革といふことが甚だ稀で、從つて支那には進歩がない。支那の梁啓超が、曾て北京で我が矢野(文雄)公使に面會した時、明治十四年に出來た黄遵憲の『日本國志』によつて、種々の日本のことを質問すると、矢野公使は、
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『日本國志』は約二十年前の書物である。日本の十年間の進歩は、支那の百年以上に當る。『日本國志』で日本の今日を忖度するのは、丁度『明史』に據つて支那の現状を論ずると同樣、事實を距ること遠い。
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と答へた。その後梁啓超は日本に渡來して見ると、矢野公使の言、人を欺かざることを發見したというて居る。
 支那は早くから西洋の新文明に觸接したが、例の保守と自尊とが邪魔をして、中々新文明を採用させぬ。所が日清戰役と日露戰役とによつて、流石に四千年來の長夜の夢を醒まして、變法自強を唱へることになつたのは、よくよくの事で、支那人も自白して
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