禪讓のことを記して、
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稽[#二]唐禪[#一レ]虞。紹[#二]天明命[#一]。釐[#二]嬪二女[#一]。欽授[#二]天位[#一]。
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など文字を列べてあるが、實に滑稽至極と申さねばならぬ。
しかしこの方法が案外好評であつたので、その以後支那の革命は、大抵この似而非なる禪讓の形式を採つて居る。その裏面を窺ふと、或は願後身世世、勿[#三]復生[#二]天王家[#一](劉宋の順帝)といひ、或は願自[#レ]今以往、不[#三]復生[#二]帝王家[#一](隋の恭帝)といひ、似而非なる禪讓の犧牲となつた君主の境遇、眞に憐むべきものがあつても、兔に角形式の上では、堯舜の先例その儘になつて居れば、それで支那人は承知するのである。
支那人は何事をするにも、必ず古人を引き出して來る。西晉の武帝はその太子の惠帝(司馬衷)の暗愚で不評判なるを憂ひ、その才能の程度を實驗する爲に、特に密封にて或る問題を與へて、太子にその答案を提出せしむることにした。その答案の結果如何によつて、太子の廢立を斷行する決心であつた。所が太子の妃の賈氏は中々油斷ならぬ人物で、武帝の眞意を測り知つて、由々しき大事と考へ、祕書の張泓といふ者に命じて、太子に代つてこの答案の草稿を作らしめた。張泓は不用意に、例の如く詩曰とか書曰とか、孔子曰や孟子曰を連發して答案を作つた。その草案を見た賈氏は、太子は暗愚にして、『詩經』や『書經』を知らぬ筈であるのに、かく詩・書や聖賢を引用しては、直に代作の馬脚露見すべしとて、悉く詩曰、書曰の句を削り去り、議論の經路は極めて迂遠ではあるが、歸着は間違つて居らぬ樣な、薄馬鹿らしい答案に改作せしめて、首尾よく武帝の眼を眩まし、太子の位置を完全にしたことがある。暗愚では困るが、普通の人間なら、その論文には必ず經書や古人を引用せねばならぬ慣習は、この事件を見ても明かである。
〔隋の煬帝は高句麗征伐をやつたことがある。その時百萬の大軍を、左右の二軍各十二隊、併せて二十四隊に分つた。所が統監部から此等諸隊の向ふべき目的地を指示する場合に、六七百年も以前の漢時代の地名を使用して居る。玄菟(郡名)とか樂浪(郡名)とか、蓋馬(縣名)とか黏蝉《ネンテイ》(縣名)とか、沃沮(種族名)とか肅愼《シユクシン》(種族名)とか、甚しきは※[#「あしへん+(榻−木)」、第4水準
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