信用に在る。上下相信ぜぬ國は亡國である。故に信用が第一で、次が財政、軍備は更にその次に來るべきものである。この孔子の意見は、萬古に亙れる眞理であつて、決して軍備を輕視したものでない。孔子自身は有[#二]文事[#一]者、必有[#二]武備[#一]と申して居る位で、文弱一點張りの人ではない。併し孟子などは、仁者無[#レ]敵主義を鼓吹する餘り、仁義だに行はば、軍備は論ずるに足らぬかの如き口氣を漏らし、可[#レ]使[#三]制[#レ]梃以撻[#二]秦楚之堅甲利兵[#一]矣などと、武器無用に近き意見を述べて居る。兔に角後世の儒者は、多く軍備を輕視する傾向をもつて居ることは、爭ふべからざる事實である。
 併し儒教はむしろ弊の少き方である。孔子と前後して出た老子の如き、墨子の如き、何れも極端な平和主義を説いて居る。不爭を主張する老子、兼愛(博愛)を主張する墨子は、軍備を無用とし、戰爭を排斥するのは當然のことである。かかる學説の影響を受けた支那人の間には、自然戰爭を厭忌する氣風が増進したに相違ない。
 (三)[#「(三)」は縦中横]先天的に利害打算の念慮の發達した支那人は、小にしては爭鬪、大にしては戰爭、何れも危險の割合に、利益が伴はぬことを夙に承知して、成るべく戰爭や鬪爭をせぬ慣習を養成した。實際支那の塞外の北狄などは、たとひ之を撃破した所が、得る所失ふ所に及ばず、功は勞を償はぬ憾がある。多少の歳幣を贈つて、始めから彼等と戰爭せぬが利益である。支那歴代の政策は、利禄を以て北狄を懷柔して、北邊を侵擾せしめぬ樣に力めて居る。〔往古の支那人は、必しも後世の如く、しかく怯懦ではなかつた。故に漢時代には、胡兵五而當[#二]漢兵一[#一]とさへ稱せられた。事實『史記』や『漢書』『後漢書』をみると、荊軻とか聶政とか、傅介子とか段會宗とか、陳湯とか班超とか、快男子が中々多い。所が歴代の誤つた打算主義・妥協主義の積弊が、代一代と支那人の氣骨を銷磨[#「銷磨」は底本では「鎖磨」]させ、遂に今日の如き怯懦至極な支那人を作り上げたものと想ふ。〕
 支那人が文弱である原因は兔に角、支那人は個人としても腕力沙汰は甚だ稀で、團體としても戰爭は好まぬ。支那人の所謂喧嘩は喧嘩口論である。この意味での喧嘩ならば、支那人は世界有數の喧嘩好きかも知れぬ。支那の學堂や官衙など、人の群集する場所には、必ず禁止喧嘩と掲示してある
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