といふ第一路總司令官の曹※[#「金+昆」、第4水準2−91−7]や、第二路總司令官の張懷芝は、何時の間にやら軟化して仕舞ふ。大本營では強硬説が主張せられ、戰線では妥協説が歡迎されるのが、支那古今の常態である。之には種々内面の理由もあるが、支那人は一身の利害の爲には、苟合妥協を濫用して恥づる所を知らぬことも、確にその一大原因と認めねばならぬ。彼等は軍用金を手に入れる目的で、心にもない強硬説を主張するが、目的さへ達すれば、その本性を發揮して、妥協を主張するのである。

         四 支那人の妥協性(四)

 國内に於て妥協を濫用する支那人は、異族に向つても亦妥協を濫用する。北支那なる燕・趙地方は、もと悲歌慷慨の士多しと稱せられたが、それも過去のこと、唐・宋以後となつては、彼等もよく外來の異族と妥協して行く。金の世宗は曾て燕人を評して、「遼兵至則從[#レ]遼。宋兵至則從[#レ]宋。本朝(金人)至則從[#二]本朝[#一]」と罵倒したが、かかる態度は燕人に限らず、支那人全體に普通かと思ふ。女眞人や蒙古人や滿洲人との妥協は兔に角、一八六〇年に英・佛軍の北京進撃の時にも、明治三十三年に聯合軍
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