た魏を征伐することは、劉備にとつて第一の義務で、又蜀の存在の第一義であらねばならぬ。若し北伐を中止したならば、蜀の存在が無意義となる。殊に孔明の立場からいふと、劉備が辭世の際に、懇々彼に漢業囘復を依囑し、この目的を遂行の爲には、劉禪を廢しても差支へないとまで極言して居る。孔明としては道理からいうても、私情からいうても、一日も北伐を忘るべきでない。魏を征伐することは、成敗利害を超越した大問題である。成敗を度外視して、一直線に道理に殉じ、義務を果したといふ所に、孔明の尊い人格が露はれて居る。曾子の所謂「自反而|縮《ナホクバ》。雖[#二]千萬人[#一]吾往矣」とはこれである。
 孔明の生涯の中で、私の尤も感激に堪へぬのは、その草廬三顧の時でなく、呉に使して孫權を説服した時でなく、又南蠻を征伐して、孟獲を七擒七縱した時でなく、實に成敗を度外に北伐を實行して、義務に殉じた時に在る。若し眼前の小利小康からいへば、蜀の險阻を守つて、北伐などを企てぬ方が得策かも知れぬ。併し此の如きは所謂瓦全で、蜀の自殺に外ならぬ。かくては決して天下後世の同情を買ふ事が出來ぬ。後世まで蜀に同情者の多い所以は、利害を離れて名分に殉したからである。西晉の陳壽の『三國志』には、魏を正統としてあるが、東晉の習鑿齒以來、之に反對して蜀を正統に推す學者が多く、南宋以後支那の歴史は、蜀を正統に、魏を閏位に置くことに一定した。正統論は力の大小によるのでなく、理の當否に據るべきものである。Might 以上に重きを Right に置く正統論は、世道人心に大なる影響を及ぼして居る。わが『神皇正統記』もその影響を受けて現はれたものである。孔明の北伐はこの正統論の基礎を置いたもので、かかる重大なる影響を、千歳の後に及ぼしたことを、記憶せなければならぬ。

         六 諸葛亮(下)

 終にのぞんで孔明の人物について、二三の管見を加へたい。
 (※[#ローマ数字1、1−13−21])至誠忠義
 支那は古來革命の國で、君位の分は定まつて居らぬ。『左傳』にも君臣無[#二]常位[#一]と見えて居る。今日の臣下も、明日の君上となり得る國柄である。從つて支那の君主は、赤心を臣下の腹中に置くことが六ケ敷い。絶えず臣下に對して、猜疑警戒の眼を見張らねばならぬ。從つて君臣の間、水魚の如しといふ場合は、殆ど絶無に近い。寛仁大度と評せられる漢の高祖すら、その功臣を殺戮して、身の安全を圖るといふ有樣である。所が獨り劉備と孔明との間は、水魚その儘であつた。こは劉備の至徳にもよるが、同時に孔明の誠忠にもよることと思ふ。
 それよりも一層感心に堪へぬのは、劉禪と孔明との關係である。劉備がその死に臨み、孔明に後事を託した時に、「嗣子可[#レ]輔輔[#レ]之。如《モシ》其不可。君可[#二]自取[#一]」といひ、又劉禪に對しては、汝事[#二]丞相[#一](孔明)如[#レ]父と申渡して居る。劉禪時代に蜀の全權は、孔明一人の手に歸した。支那の國情では、かかる場合に權臣が臣節を完くすることが甚だ六ケ敷い。權臣自身は臣節を完くする積りでも、その周圍の者が許さぬ。北宋の太祖がその近衞の大將の石守信に對して、「麾下欲[#二]富貴[#一]。一旦有[#下]以[#二]黄袍[#一]加[#中]汝身[#上]。汝雖[#レ]欲[#レ]不[#レ]爲。其可[#レ]得乎」と警戒したのは、支那の國情から觀て無理ならぬ警戒である。所謂主幼にして國疑ふ時代には、聖人と仰がれる周公すら、野心ありと流言を立てられたでないか。白樂天のいはゆる周公恐懼流言日とはそれである。然るに孔明に對しては、一度もかかる惡評が立たなかつた。かかる場合に處して、完全に臣節を盡し得た者は、支那では古今殆ど孔明一人と申してもよい位である。之が孔明の至誠忠義の人たる結果に外ならぬ。
 (※[#ローマ数字2、1−13−22])公平無私
 『三國志』の著者陳壽は、孔明の政治振に就いて、次の如く評して居る。
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諸葛亮之爲[#二]相國[#一]也。撫[#二]百姓[#一]示[#二]儀軌[#一]。開[#二]誠心[#一]布[#二]公道[#一]。盡[#レ]忠益[#レ]時者。雖[#レ]讐必賞。犯[#レ]法怠慢者。雖[#レ]親必罰。……善無[#二]微而不[#一レ]賞。惡無[#二]纖而不[#一レ]貶。……刑政雖[#レ]峻、而無[#二]怨者[#一]。以[#二]其用[#レ]心平、而勸戒明[#一]也。
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 この陳壽はもと蜀の人で、その父の時代から、種々の事情で、諸葛一家に對して、餘り好い感情をもたぬ筈の人であるから、寧ろ孔明を實際以上に貶しても、實際以上に褒めることのない人であるが、その陳壽の評にして右の如くである。
 孔明は必罰主義で隨分人を罰したが、決してそれ
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