準1−90−32]邑、歩利里、公乘、成貴年卅六」の如き、「〔敦徳亭〕間田武陽里、年五十二歳、姓李氏、除爲[#二]萬歳候造史[#一]」のごとき「戍卒、新望、興盛里、公乘、□殺之年卅八」のごときそれである(〔Chavannes; Documents Chinois De'couverts par Aurel Stein. pp. 102, 120, 124.〕 羅振玉『流沙墜簡考釋』二參看)。『博物志』に載する所の司馬遷に關する記事は、誠によく漢時代の簿書の形式を具存して居るではないか。
 王國維も亦この『博物志』の記事の形式や内容を考證して、
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茂先(張華)此條。當[#レ]本[#二]先漢(西漢)記録[#一]。非[#二]魏晉人語[#一](「太史公行年考」)。
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と斷じ、又、
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由[#二]此數證[#一]。知[#下]博物志此條。乃本[#二]於漢時簿書[#一]。爲[#中]最可[#レ]信之史料[#上]矣(同上)。
[#ここで字下げ終わり]
と斷じて居る。
 私も王國維同樣に、『博物志』の記事を尤も信憑すべき史料と認めるが故に、この記事を根據として、司馬遷の生年を考定したのである。『史記正義』の所傳も信憑すべきであらうが、單に遷年四十二歳とあつて、その根據が不明であるから、『博物志』の記事と異同ある場合に、來歴のより明確で内容のより信憑すべき、後者を採用するが當然ではあるまいか。後者を採用すれば、司馬遷は年二十六歳の時に、父司馬談を失つた譯で、かの「報[#二]任安[#一]書」中の「不幸蚤失[#二]二親[#一]」といふ文句に、よりよく適合するであるまいか。この『史記索隱』の所傳と、『史記正義』の所傳との、是非取捨如何に就いては、第三者の公平なる批判を仰がねばならぬ。

         八

 以上論述した所を要約すると、張惟驤の主張は牽強附會に過ぎて、勿論信憑し難い。王國維の中元五年説と私の建元六年説とは、一長一短ではあるが、その長短を對比計量して、建元六年説の方が、より無難かと思ふ。私が司馬遷の生年を建元六年と主張する所以は實に茲に在る。
[#地から3字上げ](昭和四年八月九日稿・『史學研究』第一卷第一號所載)



底本:「桑原隲藏全集 第二卷 東洋文明史論叢」岩波書店
   1968(昭和43)年3月13日
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