その大要は Hoernle 氏の論文(30[#「30」は縦中横])に引用されてあるから、Hoernle 氏のを更に節約して古紙研究の結果概略を下に紹介いたさう。
Rainer 太公の手許に蒐集された古紙のうちには、薩末※[#「革+建」、78−8]《サマルカンド》を始めマホメット教國で製造された紙が澤山ある。年代が古くて確實な方では、西暦八百七十四年、九百年、九百九年の文書がある。年代は明記されてないけれども他の理由によつて、西暦七百九十一年若くば二年と認定すべき文書もある。この最後の文書は薩末※[#「革+建」、78−10]で支那人の捕虜が紙を製造し始めてから、丁度四十年に當つて居る。Wiesner 教授はこのマホメット教國製造の古紙に就いて顯微鏡調査を試みた結果、此等の古紙は何れも純然たるリンネンの敝布《ふるぎれ》を原料として、決して樹皮などの生纖維を混和して居らぬことが判明した。
併し一方ではマホメット教國の史家等は、最初薩末※[#「革+建」、78−14]で紙を製造した時に、草木即ち生の植物纖維を原料としたと傳へて居る。尚ほ又、ペルシア語及びアラビア語で紙を 〔Ka^ghaz〕 又は 〔Ka^ghad〕 といふ。之は印度の Kaghaz といふ言葉と同じく、何れも支那の穀紙(Kuchih 古音 Kok−dz)を訛つたものである(31[#「31」は縦中横])。古傳説が草木を製紙の原料としたと傳へて居り、またマホメット教國へ最初輸入された紙が、穀紙を訛つた 〔Ka^ghaz〕 又は 〔Ka^ghad〕 といふ名稱で知られて居る事實を併せ考へると、當初|薩末※[#「革+建」、79−1]《サマルカンド》で支那人の捕虜によつて製造された紙は、主として樹皮を原料に用ひたであらうといふことは、殆ど疑ふ餘地がないやうに思はれる。
支那の新疆の探檢が行はれると共に、この地方から古文書が發掘された。英國の Stein 氏が天山南路で發掘した古文書は隨分あるが、その中に唐の代宗から徳宗時代にかけての古文書で、年代の明記されて居るものが都合七種ほどある。即ち代宗の大暦三年(西暦七六八)、徳宗の大暦十六年(實は建中二年、西暦七八一)、大暦十七年(實は建中三年、西暦七八二)、建中三年(西暦七八二)、建中七年(實は貞元二年、西暦七八六)、建中八年(實は貞元三年、西暦七八七)、貞元六年(西
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