の兵の方が強い。一體この水に弱いといふことは蒙古人ばかりではありませぬが、同じ支那でも南船北馬と言ひまして北支那の人はまるで水上の働きは駄目です。揚子江から南になると水になれて船にも乘ります。夫故に支那人でも北方の方から起つた支那人はまるで水には弱い。今日でも支那人の海軍を志願するのは揚子江以南の者が多い。三國志などを見ても分りますが、赤壁の戰で魏の曹操が八十萬の兵を率ゐ、呉の周瑜が三萬を率ゐたとか云ふ大きな戰爭ですが、其當時天下第一の智者と言はれた魏の曹操でももともと北方の人ですから水上となると閉口する。揚子江は廣い所は二マイルもあるといふが、何しろ内地を流れて居る河ですから高が知れて居る。それに魏の曹操の軍勢は船へ乘つても船がぐらつくというて怖がつて、とうとう連艦の計とかいふ支那人相當の考を出し、小さい船の澤山あるやつを、此船も此船も鎖で繋ぎつけました。成程船は小さいけれども、皆鎖で繋いであると、大きな船になりますから、所謂大船に乘つた氣で安心して乘りましたが(笑聲起る)、其處を燒討にされましたから逃げる譯に往かない。そんなことで大敗したのです。支那人でもさうですが、所で蒙古人はも
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