きであらねばならん、)と。

 四月に入って良人の病気は余程よくなった。まる三ヵ月の間に登恵子が払った精神的犠牲は大きなものであったが、でも良人の重病をよくしたことが責めてもの償いである。
 彼女は、今度向島請地の笑楽軒というのへ住み込んだ。食卓がたった二個しか据えてない小さな店だのに、それで二人も女給がいるのであった。朋輩の女性は其処で働くのが始めてだという話。登恵子が見ていると、彼女の番に当った客は、
「ボーイさん、カツ一枚とビール一本。」と言って注文した。すると彼女はきまり悪そうな声で。
「カツ一丁……。」とコック場へ向って呼んだ。
 それから三十分程たって客が出て行くと主人は不機嫌な顔でつかつかっと店へ出て彼女を叱りつけるのであった。
「お前、何遍言ってきかせてもそんな腕の鈍いことでは駄目だよ。ボーイの腕が鈍い為めに店の収益は些《ちっ》ともあがらねえ。」
 笑楽のおやじは半分登恵子にも当てつけるように言った。
「お客がビール一本注文したら三本位持って行って了うのだよ。カツレツなんか注文したら、そんな吝《けち》くさい物を食べずにたまにゃ最と上等の料理おあがりよ、そしてあたしにも驕って頂戴ってせぶるんだ。」
 主人は新しい子にこうして押し売りを強いていた。併しこれも半ば登恵子に当てつけたような言い方なのである。朋輩は此の無理難題を一言の口答もせずに御尤《ごもっとも》様で聴いているのだったが、登恵子はもう我慢が出来なかった。で、
「あたしゃね、人にこんな不味い料理の押し売りなんか出来ませんよ。」ときっぱり言い放った。
「なに、家の料理が不味い? 生意気なこと言うな、ボーイのくせに……。」
 笑楽のおやじはぐっと眼に角を立てて呶鳴った。
「不味いから不味いと言ったらどうしたの? こんな料理は犬でも食べやしないよ。」
「生意気な、此の女《あま》!」
 おやじの毒つく声と形相は全く獣のように見て取られた。
「てめえらのような女は家に置けねえ、出て行きやがれ。」
 登恵子にはこう言うおやじの顔が、幾万の女を虐げて豚のように肥満している総ての料理屋の主人の代表の如く思われて、憎悪に堪えなかった。そして、
「誰が居てやるものか、畜生!」と痛烈な一語を残して敢然と其処を立ち去った。と、彼女は(女工がいい、堅実な神聖な労働がいい)とつくづく元の生活が恋しくなった。



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