かな寝息で純白の腹をびこつかせ乍らすやすやと眠って居る。その姿は平和そのもののようであり、愛と幸福を告げる天使か菩薩の仏使のように見えた。

   四

 女給を無給で使って看板にしているカフェーでは、彼女にいてほしさにモルモットを伴れて住み込むことを承諾した。それで、妻は動物のつれ子して行き、彼は弁当配達に住み込んで愈々夫婦は別れ別れになった。
 彼女は二三人の朋輩やコックや出前持なんかと一緒に寝るべくあてがわれた店の二階に其モルモットの箱小舎を置いて、コック場から出る西洋人蔘やキャベツやパセリの屑で二ひきの獣を飼った。彼の姿が見えなくなってから二三日というもの、見知らぬ男女がどやどやと箱のぐるりであばれて家の様子が変ったので、小さな動物は脅えたように温順《おとな》しかった。しかし暫くたつと以前よりも一層よく人に馴れて来て菓子を食べる、芋を噛る、紙を食べる、そしてまるっぽの林檎に手をかけて噛りつくのであった。
「××ちゃんはモルモットを飼っているそうだね? そんなけだものを可愛がるよりか、僕にキスさせてくれた方がよっぽどいいや。」
 客達は、こんなに言って彼女をひやかした。けれども彼女は淋しかったので暇さえあれは、モルモットを抱いて動物に話しかけた。
「モルちゃんや、父うちゃんはねえ、いまお弁当の車を曳っぱっているよ、ゴロゴロを曳いているの。モルやはその上に乗せて貰うか?」
 彼女が脣を持って行くと、モルモットはその可愛い口から極めて小さな舌を出して人間の脣を舐めた。
「モルちゃんいい仔だね……キッチュ覚えたの? かちこいかちこい。」
 二ひきのけものを交々抱いて頬ずりすると、モルモットはぴこぴこ鼻を動かして喜んだ。
「父うちゃんがねえ、母ちゃんとモルやを迎いに来るよ。それでは、父うちゃんが来るまでお行儀よくして茲の家で待つの。いいか? 判ったか?」彼女は、こういって宛《さなが》ら本統の子供ででもあるかの如く色んな事を言い聞かせた。
 モルモットは日毎に馴れて怜悧になった。餌を貰う時に、彼女が「モルやお頂戴」と言うと前足二本を宙にあげて小器用に立つようになった。時々自分の小舎である箱を鼠のように噛ったりするので、軽く頭を叩いて戒めてやると長いあいだ頭を上げないで怒っている。小さなものが一人前に怒ることを知っていて、ぐざりとふてた真似をした。けれども、彼女にとってはそれがまた一層かあいかった。

   五

 失業中に書いた「工場史」が出版される運びになってその方の金が少しばかり前借でき、見すぼらしい乍らも間借りして再び世帯が持てるようになったので、[#読点は底本で開きかぎ括弧で誤植]彼はカフェーヘ妻を迎えに行った。そうしてモルモットと共に伴れ帰って山の手の郊外へ引き移った。
 もう秋だった。坂の楓が色づいてお屋敷の庭から木犀の匂いが漂って来る。お宮では銀杏が黄ばみかけ、お寺には萩が咲いていた。下町の場末の、工場地帯にばかり住んで居った故郷を出てからというものまるで自然と勘当を受けたような生活していた彼は、久しぶりに煤煙の混らぬ清らかな空気を肚一ぱい吸うことが出来て蘇生の思いがした。永年の工場生活より来ている痼疾が、日毎に取り除かれて癒って行くようにさえ考えられた。六畳の二階がりで部屋は狭い。道具はない、着物もない――しかし二人はこれまでにかつて感じた経験の無いゆっとりとした気分の生活を味わった。
 夫婦が散歩するときは勿論のこと彼女は何処へ行くにもモルモットの牝の方を抱いて行った。八百屋へ行くにも酒屋へ行くにも、豆腐屋へ行くにも、彼女は決して独り行かなかった。尤も、それには動物を伴れて行く方が都合のいい訳もあった。たとえば豆腐のおからを一銭買うようなとき、人が食べるためと言えばたったそれっぱかり可笑しいが、モルに遣るのだと言えは少しも嗤《わら》われないのだった。しかし乍らそんな功利的な考えからではなく、彼女は真実モルモットが可愛かった。
「あなた、今日ねえ、モルやは八百屋のおばちゃんに人蔘一本もらったわよ。」
 或る日、彼女は例の如く動物を使いに伴れて行って帰ったとき言った。
「ふうん……そんなものでも儲け物するのかなあ。」
 彼はこう答えて微笑んだ。モルモットは、五寸くらいな葉のついた西洋人蔘を咥えていた。
「あなた、よう、モルやは今日も儲け物したわ、バナナ一本もらったの。」
 翌日、小さな動物はまたもや八百屋で貰い物をした。そして、その明る日も梨を一個もらって来た。と、彼女は何時しか此のこつを覚えてその八百屋でばかり青物を買うようになった。すると、モルモットはその度毎に必ず何か食べ物を貰って、彼女の胸でそれを食べ乍ら家へ戻った。
「わたし、前は何故あんなによく怒ったんだろう?」彼女は小さな動物をあやしながら、それを蹴ちらかした時の事を思い出して良人に言った。
 日に一度ずつ散歩がてら其処へ伴れて行って、生えた草を動物に食べさせてやる丘が一面の枯野ガ原に包まれ冬の眠りに陥る頃、かねて姙娠していたモルモットのお肚は愈々おおきくなって来た。そして七十日ほど経てば出産するという小さなものは、遠からず赤ん坊を産みそうである。暫くのあいだ快活になっていた妻は、そのモルモットの肚を診察しては憂鬱な顔をした。そして、
「モルや、お前までが母ちゃんに成るんだねえ……。」と羨ましそうに言って涙をこぼした。
 少女の頃から工場へは入って女工生活をし、冷たい敷石の上に塵埃を吸って粗食しつつ生長した彼女は、もう永久に母たる事が出来なかった。
「モルや、お前が赤ちゃん産んだら母ちゃんはおばあちゃんになるんだよ、そして父うちゃんがおじいちゃん。お前は、いつ赤ちゃん産むんだ!」
 彼女は奪われた母性を歎いて、思わず落した大粒な涙をモルモットの肚に転がし乍ら、自からの心をまぎらわすためにこう冗談いって、小さな動物の体をぎゅっと力強く握りしめた。



底本:「日本プロレタリア文学集7 細井和喜蔵集」新日本出版社
   1985(昭和60)年9月25日初版発行
底本の親本:「文章倶楽部」
   1925(大正14)年10月号
入力:大野裕
校正:林幸雄
2000年12月28日公開
青空文庫作成ファイル:
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