かした時の事を思い出して良人に言った。
日に一度ずつ散歩がてら其処へ伴れて行って、生えた草を動物に食べさせてやる丘が一面の枯野ガ原に包まれ冬の眠りに陥る頃、かねて姙娠していたモルモットのお肚は愈々おおきくなって来た。そして七十日ほど経てば出産するという小さなものは、遠からず赤ん坊を産みそうである。暫くのあいだ快活になっていた妻は、そのモルモットの肚を診察しては憂鬱な顔をした。そして、
「モルや、お前までが母ちゃんに成るんだねえ……。」と羨ましそうに言って涙をこぼした。
少女の頃から工場へは入って女工生活をし、冷たい敷石の上に塵埃を吸って粗食しつつ生長した彼女は、もう永久に母たる事が出来なかった。
「モルや、お前が赤ちゃん産んだら母ちゃんはおばあちゃんになるんだよ、そして父うちゃんがおじいちゃん。お前は、いつ赤ちゃん産むんだ!」
彼女は奪われた母性を歎いて、思わず落した大粒な涙をモルモットの肚に転がし乍ら、自からの心をまぎらわすためにこう冗談いって、小さな動物の体をぎゅっと力強く握りしめた。
底本:「日本プロレタリア文学集7 細井和喜蔵集」新日本出版社
1985(昭和60)年9月25日初版発行
底本の親本:「文章倶楽部」
1925(大正14)年10月号
入力:大野裕
校正:林幸雄
2000年12月28日公開
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