邦之介は鉾田から小川に脱したが、九月七日雨に遭ひて夜鶴田の原に宿つた者は六十人に足らなかつた。八日府中の城下を燒いて、栗原越にかゝつた時、土浦藩士に要撃せられ死する者十二人。酒丸に到りて五人、刈間にて二人。
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酒丸安樂寺境内裏の笹山にて緋毛氈敷二人自害一人は宇都宮左衛門 傍に肩先鐵砲受候者一人居候を生捕斬首
宇都宮は紫緘の革の鎧陣羽織を着其上ござ着て打たれ申候大小一腰金子二十兩有之
西岡自殺鎧傍に捨あり金銀糸にて縫候もの着用外三人亦綸子金銀の縫也
栗原にてきり取候十二の首は俵に詰め馬につけ土浦へ送申候
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慘話續々、ひろふに堪へぬ。
西岡宇都宮等の遺骸は安樂寺に葬つたらしい。栗原越で死んだ十二人は今でも「天狗塚」として殘つてゐる。槍原の金もちの爺さんが天狗來ると聞いて槍を擔いで往來へ飛出したところを、いきなり斬り倒された。村の人達は笑止がつて天狗塚へ花を捧ぐる人もなかつたが、去る大演習の年、陛下栗原をお通りになるといふので、塚を改め築いて、はじめて「天狗塚」の高札をかゝげた。改葬した時、拾ひ出した骨は十九人分あつたといふ。素人ばかりでしらべたのであらうから信否は保留したい。若しかしたら古い塚か墓の中へ十二人を投げこんだのではあるまいか。
宇都宮左衛門は戸田彈正ともいつた。宇都宮藩主戸田侯の一族で、水野主馬同樣人質としてとりこめられてゐたのだとも傳へる。とにかく筑波客將の末路は俵に首を詰めた悲劇が大團圓である。
珂北を荒し廻つて、鯉淵農兵に狩り立てられ、逃げて八溝山中に入つた田中愿藏の一隊は、食物のありよう筈はないから、一人二人と山を下りて捕へられ、愿藏亦捕へられた。女の着物を着てゐた。部下六十人、中には十三十四の少年もゐた。後手に縛られたまゝ倉へ押籠められ、水もめしもくれず。ひよろ/\になるのを待つて斬つた。磐城國塙での事だ。
愿藏は辭世を書く間手を緩めてくれと願つたが、きかれない。よんどころなく筆を口にくはへて絶命の辭を殘した。愿藏等六十人を斬つた男は死體を懇ろに葬つてさゝやかな石を建てた。二三年前、史蹟保存の意味で其事を書いて大きな石を建てた特志の人がある。名は金澤春友。
私の知る限りでは天狗は例外なしに馬捨場へ捨てられてゐる。棺も無く槨も無い。大勢だと大きな穴を掘つて、蓆に卷いたまゝの尸を轉がしこんだ。
死囚の罪人はひとり天狗といはず、すべて馬捨場へ埋めたものらしい。私は幼時母と車で下妻の石堂を通つたことあり、塔婆二三本倒れたのもあり、かしいだのもあつた。あすこには木戸の軍藏が埋められてゐるんだよと教へられた。石堂は馬捨場である。下妻で斬つた天狗の遺骸は皆此處に殘つてゐる筈だ。荒草離々、虫、秋に啼いてさびしき靈をなぐさめるであらう。
底本:「雪あかり」書物展望社
1934(昭和9)年6月27日上梓
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「衛」と「衞」の混在は底本通りにしました。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2003年7月21日作成
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