黒島伝治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)凍《い》てつくような

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)何等|恨《うらみ》もない

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ブウ[#「ブウ」に傍点]

×:伏せ字
(例)「×中隊であります。」
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       一

 鼻が凍《い》てつくような寒い風が吹きぬけて行った。
 村は、すっかり雪に蔽《おお》われていた。街路樹も、丘も、家も。そこは、白く、まぶしく光る雪ばかりであった。
 丘の中ほどのある農家の前に、一台の橇《そり》が乗り捨てられていた。客間と食堂とを兼ねている部屋からは、いかにも下手《へた》でぞんざいな日本人のロシア語がもれて来た。
「寒いね、……お前さん、這入《はい》ってらっしゃい。」
 入口の扉が開《あ》いて、踵《かがと》の低い靴をはいた主婦が顔を出した。
 馭者《ぎょしゃ》は橇の中で腰まで乾草《ほしくさ》に埋め、頸《くび》をすくめていた。若い、小柄な男だった。頬と鼻の先が霜で赭《あか》くなっていた。
「有がとう。」
「ほんとに這入ってらっしゃい。」
「有がとう。」
 けれども、若い馭者は、乾草をなお身体《からだ》のまわりに集めかけて、なるだけ風が衣服を吹き通さないようにするばかりで橇からは立上ろうとはしなかった。
 目かくしをされた馬は、鼻から蒸気を吐き出しながら、おとなしく、御用商人が出てくるのを待っていた。
 蒸気は鼻から出ると、すぐそこで凍てついて、霜になった。そして馬の顔の毛や、革具や、目かくしに白砂糖を振りまいたようにまぶれついた。

       二

 親爺《おやじ》のペーターは、御用商人の話に容易に応じようとはしなかった。
 御用商人は頬から顎《あご》にかけて、一面に髯《ひげ》を持っていた。そして、自分では高く止っているような四角ばった声を出した。彼は婦人に向っても、それから、そう使ってはならない時にでも、常に「|お前《テイ》」とロシア人を呼びすてにした。彼は、耳ばかりで、曲りなりにロシア語を覚えたのであった。
「戦争だよ、多分。」
 父親と商人との話を聞いていたイワンが、弟の方に向いて云った。
「いいや!」商人の眼は捷《すばや》くかがやいた。「糧秣《りょうまつ》や被服を運ぶんだ。」
「糧秣や被服を運ぶのに、なぜそんなに沢山橇がいるんかね。」
 イワンが云った。
「それゃいるとも。――兵たいはみんな一人一人服も着るし、飯も食うしさ……。」
 商人は、ペーターが持っている二台の橇を聯隊の用に使おうとしているのであった。金はいくらでも出す、そう彼は持ちかけた。
 ペーターは、日本軍に好意を持っていなかった。のみならず、憎悪と反感とを抱いていた。彼は、日本人のために理由なしに家宅捜索をせられたことがあった。また、金は払うと云いつつ、当然のように、仔をはらんでいる豚を徴発して行かれたことがあった。畑は荒された。いつ自分達の傍《そば》で戦争をして、流れだまがとんで来るかしれなかった。彼は用事もないのに、わざわざシベリアへやって来た日本人を呪《のろ》っていた。
 商人は、聯隊からの命令で、百姓の家へ用たしに行くたびに、彼等が抱いている日本人への反感を、些細《ささい》な行為の上にも見てとった。ある者は露骨にそれを現わした。しかし、それは極く少数だった。たいていは、反感らしい反感を口に表わさず、別の理由で金を出してもこちらの要求に応じようとはしなかった。蹄鉄の釘がゆるんでいるとか、馬が風邪を引いているとか。けれども、相手の心根を読んで掛引をすることばかりを考えている商人は、すぐ、その胸の中を見ぬいた。そしてそれに応じるような段取りで話をすすめた。彼は戦争をすることなどは全然秘密にしていた。
 十五分ばかりして、彼は、二人の息子を馭者にして、ペーターが、二台の橇を聯隊へやることを承諾さした。
「よし、それじゃ、すぐ支度《したく》をして聯隊へ行ってくれ。」彼は云った。
「一寸《ちょっと》。」とイワンが云った。「金をさきに貰《もら》いてえんだ。」
 そして、イワンは父親の顔を見た。
「何?」
 行きかけていた商人は振りかえった。
「金がほしいんだ。」
「金か……」商人は、わざと笑った。「なあ、ペーター・ヤコレウイチ、二人の若いのをのせてやりゃ、金はらくらくと儲《もうか》るじゃないか。」
 イワンは、口の中で、何かぶつぶつ呟《つぶや》きながら、防寒靴をはき、破れ汚れた毛皮の外套《がいとう》をつけた。
「戦争かもしれんて」彼は小声に云った。「打ちあいでもやりだせゃ、俺《お》れゃ勝手に逃げだしてやるんだ。」
 戸外では若い馭者が凍えていた。商人は、戸外へ出ると、
「さあ、次へやってくれ!」と元気よく云った。
 橇は、快く、雪の上を軽く辷《すべ》って、稍《やや》傾斜している道を下った。
 商人は、次の農家で、橇と馬の有無をたしかめ、それから玄関を奥へ這入って行った。
 そこでも、金はいくらでも出す、そう彼は持ちかけた。そこが纏《まとま》ると、又次へ橇を馳《は》せた。
 日本人への反感と、彼の腕と金とが行くさきざきで闘争をした。そして彼の腕と金はいつも相手をまるめこんだ。

       三

 橇は中隊の前へ乗りつけられた。馬が嘶《いなな》きあい、背でリンリン鈴が鳴った。
 各中隊は出動準備に忙殺されていた。しかし、大隊の炊事場では、準備にかえろうともせず、四五人の兵卒が、自分の思うままのことを話しあっていた。そこには豚の脂肪や、キャベツや、焦げたパン、腐敗した漬物《つけもの》の臭いなどが、まざり合って、充満していた。そこで働いている炊事当番の皮膚の中へまでも、それ等の臭いはしみこんでいるようだった。
「豚だって、鶏だってさ、徴発して来るのは俺達じゃないか。それでハムやベーコンは誰れが食うと思う。みんな将校が占領するんだ。――俺達はその悪い役目さ。」
 吉原は暖炉のそばでほざいていた。
 飼主が――それはシベリア土着の百姓だった――徴発されて行く家畜を見て、胸をかき切らぬばかりに苦るしむ有様を、彼はしばしば目撃していた。彼は百姓に育って、牛や豚を飼った経験があった。生れたばかりの仔どもの時分から飼いつけた家畜がどんなに可愛いものであるか、それは、飼った経験のある者でなければ分らないことだった。
「ロシア人をいじめて、泣いたり、おがんだりするのに、無理やり引っこさげて来るんだからね、――悪いこったよ、掠奪《りゃくだつ》だよ。」
 彼は嗄《か》れてはいるが、よくひびく、量の多い声を持っていた。彼の喋《しゃべ》ることは、窓硝子が振える位いよく通った。
 彼は、もと大隊長の従卒をしていたことがあった。そこで、将校が食う飯と、兵卒のそれとが、人間の種類が異っている程、違っているのを見てきているのであった。
 晩に、どこかへ大隊長が出かけて行く、すると彼は、靴を磨《みが》き、軍服に刷毛《はけ》をかけ、防寒具を揃《そろ》えて、なおその上、僅《わず》か三厘ほどのびている髯をあたってやらなければならなかった。髯をあたれば、顔を洗う湯も汲んできなければならない。……
 少佐殿はめかして出て行く。
 ところが、おそく、――一時すぎに――帰ってきて、棒切れを折って投げつけるように不機嫌なことがあるのだ。吉原には訳が分らなかった。多分ふられたのだろう。
 すると、あくる日も不機嫌なのだ。そして兵卒は、叱《しか》りつけられ、つい、要領が悪いと鞭《むち》うたれるのだ。
 彼は考えたものだ。上官にそういう特権があるものか! 彼は真面目に、ペコペコ頭を下げ、靴を磨くことが、阿呆《あほ》らしくなった。
 少佐がどうして彼を従卒にしたか、それは、彼がスタイルのいい、好男子であったからであった。そのおかげで彼は打たれたことはなかった。しかし、彼は、なべて男が美しい女を好くように、上官が男前だけで従卒をきめ、何か玩弄物のように扱うのに反感を抱かずにはいられなかった。玩弄物になってたまるもんか!
「豚だって、鶏だってさ、徴発にやられるのは俺達じゃないか、おとすんだって、料理をするんだってさ……。それでうまいところはみんなえらい人にとられてしまうんだ。」彼は繰《くり》かえした。「俺達の役目はいったい何というんだ!」
「おい、そんなこた喋《しゃべ》らずに帰ろうぜ。文句を云うたって仕様がないや。」安部が云った。「もうみんな武装しよるんだ。」
 安部は暗い陰欝な顔をしていた。さきに中隊へ帰って準備をしよう。――彼はそうしたい心でいっぱいだった。しかし、ほかの者を放っておいて、一人だけ帰って行くのが悪いような気がして、立去りかねていた。
「また殺し合いか、――いやだね。」
 傍で、木村は、小声に相手の浅田にささやいていた。二人は向いあって、腰掛に馬乗《うまのり》に腰かけていた。木村は、軽い元気のない咳をした。
「ロシアの兵隊は戦争する意志がないということだがな。」
 浅田が云った。
「そうかね、それは好もしい。」
「しかし、戦争をするのは、兵卒の意志じゃないからな。」
「軍司令官はどこまでも戦争をするつもりなんだろうか。」
「内地からそれを望んできとるというこったよ。」
「いやだな。――わざわざ人を寒いところへよこして殺し合いをさせるなんて!」
 木村は、ときどき話をきらして咳をした。痰がのどにたまってきて、それを咯《は》き出さなければ、声が出ないことがあった。
 彼は、シベリヤへ来るまで胸が悪くはなかった。肺尖《はいせん》の呼吸音は澄んで、一つの雑音も聞えたことはなかった。それが、雪の中で冬を過し、夏、道路に棄てられた馬糞が乾燥してほこりになり、空中にとびまわる、それを呼吸しているうちに、いつのまにか、肉が落ち、咳が出るようになってしまった。気候が悪いのだ。その間、一年半ばかりのうちに彼は、ロシア人を殺し、ついにはまた自分も殺された幾人かの同年兵を目撃していた。彼自身も人を殺したことがあった。唇を曲げて泣き出しそうな顔をしている蒼白《あおじろ》い青年だった。赭《あか》いひげが僅かばかり生えかけていた。自分の前に倒れているその男を見ると、別に憎くもなければ、恨《うらみ》を持っているのでもないことが、始めて自覚された。それが不思議なことのように思われた。そして、こういうことは、自分の意志に反して、何者かに促されてやっているのだ。――ひそかに、そう感じたものだ。
 嗄《しわが》れた、そこらあたりにひびき渡るような声で喋っていた吉原が、木村の方に向いて、
「君はいい口実があるよ。――病気だと云って診断を受けろよ。そうすりゃ、今日、行かなくてもすむじゃないか。」
「血でも咯くようにならなけりゃみてくれないよ。」
「そんなことがあるか!――熱で身体がだるくって働けないって云やいいじゃないか。」
「なまけているんだって、軍医に怒られるだけだよ。」木村は咳をした。「軍医は、患者を癒《なお》すんじゃなくて、シベリアまで俺等を怒《おこ》りに来とるようなもんだ。」
 吉原は眼を据えてやりきれないというような顔をした。
「おい、もう帰ろうぜ。」
 安部が云った。
 中隊の兵舎から、準備に緊張したあわただしい叫びや、叱咤《しった》する声がひびいて来た。
「おい、もう帰ろうぜ。」安部が繰かえした。「どうせ行かなきゃならんのだ。」
 空気が動いた。そして脂肪や、焦げパンや、腐った漬物の悪臭が、また新しく皆の鼻孔を刺戟した。
「二度診断を受けたことがあるんだが。」そう云って木村は咳をした。「二度とも一週間の練兵休で、すぐまた、勤務につかせられたよ。」
「十分念を入れてみて貰うたらどうだ。」
「どんなにみて貰うたってだめだよ。」
 そしてまた咳をした。
「おい。みんな何をしているんだ!」入口から特務曹長がどなった。「命令が出とるんが分らんのか! 早く帰って準備をせんか!」
「さ、ブウ[#「ブウ」に傍点]がやって来やがった。」

       四

 数十台の橇が兵士をのせて
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