、雪の中で冬を過し、夏、道路に棄てられた馬糞が乾燥してほこりになり、空中にとびまわる、それを呼吸しているうちに、いつのまにか、肉が落ち、咳が出るようになってしまった。気候が悪いのだ。その間、一年半ばかりのうちに彼は、ロシア人を殺し、ついにはまた自分も殺された幾人かの同年兵を目撃していた。彼自身も人を殺したことがあった。唇を曲げて泣き出しそうな顔をしている蒼白《あおじろ》い青年だった。赭《あか》いひげが僅かばかり生えかけていた。自分の前に倒れているその男を見ると、別に憎くもなければ、恨《うらみ》を持っているのでもないことが、始めて自覚された。それが不思議なことのように思われた。そして、こういうことは、自分の意志に反して、何者かに促されてやっているのだ。――ひそかに、そう感じたものだ。
嗄《しわが》れた、そこらあたりにひびき渡るような声で喋っていた吉原が、木村の方に向いて、
「君はいい口実があるよ。――病気だと云って診断を受けろよ。そうすりゃ、今日、行かなくてもすむじゃないか。」
「血でも咯くようにならなけりゃみてくれないよ。」
「そんなことがあるか!――熱で身体がだるくって働けないって云やいいじゃないか。」
「なまけているんだって、軍医に怒られるだけだよ。」木村は咳をした。「軍医は、患者を癒《なお》すんじゃなくて、シベリアまで俺等を怒《おこ》りに来とるようなもんだ。」
吉原は眼を据えてやりきれないというような顔をした。
「おい、もう帰ろうぜ。」
安部が云った。
中隊の兵舎から、準備に緊張したあわただしい叫びや、叱咤《しった》する声がひびいて来た。
「おい、もう帰ろうぜ。」安部が繰かえした。「どうせ行かなきゃならんのだ。」
空気が動いた。そして脂肪や、焦げパンや、腐った漬物の悪臭が、また新しく皆の鼻孔を刺戟した。
「二度診断を受けたことがあるんだが。」そう云って木村は咳をした。「二度とも一週間の練兵休で、すぐまた、勤務につかせられたよ。」
「十分念を入れてみて貰うたらどうだ。」
「どんなにみて貰うたってだめだよ。」
そしてまた咳をした。
「おい。みんな何をしているんだ!」入口から特務曹長がどなった。「命令が出とるんが分らんのか! 早く帰って準備をせんか!」
「さ、ブウ[#「ブウ」に傍点]がやって来やがった。」
四
数十台の橇が兵士をのせて雪の曠野をはせていた。鈴は馬の背から取りはずされていた。
雪は深かった。そして曠野は広くはてしがなかった。
滑桁《すべりけた》のきしみと、凍った雪を蹴る蹄《ひづめ》の音がそこにひびくばかりであった。それも、曠野の沈黙に吸われるようにすぐどこかへ消えてしまった。
ペーターの息子、イワン・ペトロウイチが手綱を取っている橇に、大隊長と副官とが乗っていた。鞭が風を切って馬の尻に鳴った。馬は、滑らないように下面に釘が突出している氷上蹄鉄で、凍った雪を蹴って進んだ。
大隊長は、ポケットに這入っている俸給について胸算用をしていた。――それはつい、昨日受け取ったばかりなのであった。
イワンは、さきに急行している中隊に追いつくために、手綱をしゃくり、鞭を振りつづけた。橇は雪の上に二筋の平行した滑桁のあとを残しつつ風のように進んだ。イワンのあとに他の二台がつづいていた。それにも将校が乗っている。土地が凹んだところへ行くと、橇はコトンと落ちこんだ。そしてすぐ馬によって平地へ引き上げられた。一つが落ちこむと、あとのも、つづいて、コトンコトンと落ちては引き上げられた。滑桁の金具がキシキシ鳴った。
「ルー、ルルル。……」
イワンは、うしろの馭者に何か合図をした。
大隊長は、肥《ふと》り肉《じし》の身体に血液がありあまっている男であった。ハムとべーコンを食って作った血だ。
「ええと、三百円のうち……」彼は、受取ったすぐ、その晩――つまり昨夜、旧ツアー大佐の娘に、毎月内地へ仕送る額と殆《ほとん》ど同じだけやってしまったことを後悔していた。今日戦争に出ると分っていりゃ、やるのではなかった。あれだけあれば、妻と老母と、二人の子供が、一ヵ月ゆうに暮して行けるのだ!――しかし、彼は大佐の娘の美しさと、なまめかしさに、うっとりして、今ポケットに残してある札も、あとから再び取り出して、おおかたやってしまおうとしていたことは思い出さなかった。
「近松少佐!」
大隊長は胸算用をつづけた。彼にはうしろからの呼声が耳に入らなかった。ほんとに馬鹿なことをしたものだ。もうポケットにはどれだけが程も残っていやしない!
「近松少佐!」
「大隊長殿、中佐殿がおよびです。」
副官が云った。
耳のさきで風が鳴っていた。イワン・ペトロウイチは速力をゆるめた。彼の口ひげから眉にまで、白砂糖のような霜がまぶれついてい
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