が軍艦に乗り組んでそこでの生活を目撃しながら、その心眼に最もよく這入ったものは、士官若しくはそれ以上の人々の生活と、その愉快なことゝ、戦争の爽快さであって、下級の水兵の生活は、その関心外にあった。たゞ、僅かに水兵の石炭積みの苦痛が一行だけ述べられてある。そして、それきりだ。ある時は、水兵は、彼には壮漢と見えた。
この士官階級以上に対してしか彼の関心がむけられなかったことは、後の小説「別天地」に於ても明かに看取されるし、他の戦争以外のことを扱った小説でも、比較的後期の「竹の木戸」「二老人」等は別として、多くは支配的地位にある者に眼がむけられている。これが、自然主義作家でも田山花袋とは異なるところで、より多く、新興ブルジョアジーのイデオロギーを反映していたあとが見られる。そして、独歩自身は多く窮迫の生活をしたにかゝわらず、階級的には支配階級の立場に立っていた。その階級的制約が、水兵たち下級の生活に注意を向けることを妨げたのであろう。
「酒中日記」の如き、日清戦争後の軍人が、ひどく幅をきかした風潮を、皮肉りあてこすっている作品でも、将校はいゝのだが、下士以下が人の娘や、後家や、人妻を翫弄し堕落させるとしている。将校は営外に居住し得、妻帯し得るのに対して、下士以下兵卒は兵営に居住しなければならないし、妻を持ち得ない生活条件から、そういう結果になっていた簡単な事実が、独歩には気がつかなかったものらしい。戦死負傷についても、彼は年少士官のそれに最も多く心を動かした。多年の苦学と、前途の希望が中断されるというのがその理由である。そこにも、支配階級の立場と、当時の進取的な、いわゆる立身成功を企図したブルジョアイデオロギーの反映がある。
「愛弟通信」を読み終って、これが、新聞への通信ということに制約されたにもよるのだろうが、戦闘ばかりでなく、戦闘から戦闘への間の無為にすごすその間のこと、陸上との関係、占領した旅順や大連の風物、偵察等を書きながら、しかも、単純で、喰い足りない印象を受ける。士官の立場から物を見て書いたのでも、トルストイの「セバストポール」は、はるかに、清新に、戦争と状景が躍動して、恐ろしく深く印象に刻みつけられる。日清戦争に際して、背後の労働者階級と貧農がどんな風であったかは、この「愛弟通信」から求められ得ないが、国際的な関係の現れとしての北支那海に於ける英仏独露の軍艦の浮游が報じられてある。独歩は、それについて何等の説明も附してはいないし、或は気がつかなかったかもしれないが、今日からかえり見て想像を附加すると、既に戦後の三国干渉に到る関係が、その時から現れていたようで興味が深い。
独歩の眼に士官階級以上しか映じなかったより以上に、徳富蘆花の「不如帰」にはそれ以上、大将や中将や男爵等が主として書かれている。独歩はブルジョア的であるが、蘆花は封建的色彩がより色濃い。蘆花自身人道主義者で、クリスチャンだったが、東郷大将や乃木大将を崇拝していた。
「不如帰」には、日清戦争が背景となっている。そして、多くの上級の軍人が描かれている。黄海の海戦の描写もある。しかし、出てくる軍人も戦争の状景も、通俗小説のそれで、ひどく真実味に乏しい。それに、この一篇の主題は戦争ではなく浪子の悲劇にある。だから、ここで戦争文学として取扱うことは至当ではないが、たゞこれが当時の多くの大衆に愛誦された理由が、浪子の悲劇だけでなく、軍人がその中に書かれ、戦争が背景に取り入れられ、戦時気分に満たされていたことに存在するのを注意しなければならない。それが軍事的傾向の横溢した日清戦争から日露戦争に到る間の当時の風潮に投合したのである。一九三一年満洲事変以後、軍事的傾向と気分が復活すると、「不如帰」が改作されて映画となって、再び出現したのもまた理由のないことではない。「不如帰」については、立入る必要はあるまい。
第四章 日露戦争に関連して
─花袋の「一兵卒」、忠温の「肉弾」、龍之介の「将軍」
日清戦争当時のブルジョアジーは、既に解放される階級ではなく、支配する階級、抑圧する階級として発展しつゝあった。十年後の日露戦争になると、それはます/\発展して、戦争は××××的性質を具備した。
戦争開始前、「万朝報」によった幸徳秋水、堺利彦、黒岩涙香等は「非戦論」を戦わした。しかし、明治三十六年十月八日、露国の満洲撤兵第三期となった時、戦争はもはや到底避けられないことが明かになるや、黒岩涙香は主戦論に一変した。幸徳、堺は「万朝報」を退社し、「平民社」を創立した。そして、十一月十五日「平民新聞」第一号を発行した。これには、毎月欠かさず××の記事が掲載された。三十八年八月には、堺利彦の訳になるトルストイの日露戦争反対論が掲げられている。
かゝる事実は、こ
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