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行かばわれ筆の花散る処まで
いくさかな、われもいでたつ花に剣
秋風の韓山敵の影もなし
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 等があるばかりである。
 しかし、それは、この写生派、余裕派、低徊派等が戦争に対して反対であったからではなく、多くが無関心だったからである。自然主義文学が、資本主義的生産関係を反映し、あるがまゝに現実を描こうと企図したのに対して、この写生派、余裕派、低徊派等は支配階級の中に根強く巣喰っている封建主義を多分に反映して逃避的唯美的傾向に走っていた。それが、この派をして、社会的現実としての戦争から眼を蔽わしめたのである。
 以上のほか、硯友社派、及び自然主義派の作家で、全然戦争のことには手を触れなかった若干がある。だが、それは題材の関係であって、若し、それらの作家も戦争を書けば、恐らくその大部分が、当時支配的だった軍事的イデオロギーを反映したゞろうと思われる。

   第二章 戦時に動員されて簇出した小説

 まず、さきに、戦争に動員されて簇出した戦争小説にふれて置きたい。
 一八九四年(明治二十七年)朝鮮に東学党の乱が起って、これが導火線となって日清戦争が勃発するや、国内は戦争気分に瀰漫《びまん》されるに到った。そして多くの新聞(中央新聞、報知新聞、二六新聞等)雑誌(太陽、国民之友、文芸倶楽部等)に戦争小説、軍事小説なるものが現れた。江見水蔭、小杉天外、泉鏡花、饗庭篁村、村居松葉、戸川残花、須藤南翠、村井弦斎、遅塚麗水、福地桜痴等がその作者だった。今手あたり次第に饗庭篁村の「従軍人夫」(太陽、明治二十八年一月)、江見水蔭の「夏服士官」「雪戦」「病死兵」(中央新聞二十七年十二月─一月)、村井弦斎の「旭日桜」(報知新聞二十八年一月─三月)等を取って見るのに、恐ろしくそらぞらしい空想によってこしらえあげられて、読むに堪えない。従軍紀行文的なもの(遅塚麗水「首陽山一帯の風光」)及び、戦地から帰った者の話を聞いて書いたもの(江見水蔭「夏服士官」)は、まだやゝましだとしなければならぬ。他の小杉天外にしろ松居松葉にしろ、みなその程度のものである。だから、右の諸作家の筆になるものを見ても、日清戦争がどういう風に戦われたか、如何なる戦争であったか、その戦場の迫真力のある描写の一つも、また戦時に於ける国内大衆の生活がどうであったかをも知ることが出来ない。多く
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