から負傷者が乗りこむのを見ていた看護長は、
「何だ? 何だ?」
 と、息せき/\這入ってきた聯隊の伝令に云った。
「これであります。」
 伝令は封筒を出した。
「どれ?」
 看護長は右の手袋をぬいで、よほどそこで開けて見たそうに封を切りに二本の指を持って行ったが、何か思いかえして、廊下を奥へ早足に這入って行った。
 伝令は嵩《かさ》ばった防寒具で分らなかったが、二度見かえすと、栗本と同じ中隊の一等卒だった。毛の房々しい帽子をぬいで手のひらで額の汗を拭いていた。栗本とは入営当座、同じ班の同じ分舎にいた。巻脚絆を巻くのがおそく、整列におくれて、たび/\一緒に聯隊本部一週の早駈けをやらされたものだ。
「おい、おい!」
 栗本は橇の上から呼びかけた。
 田口は看護長の返事を待ちながら、傷病者がうまく橇に身を合わそうとがた/\やっているのを見ていた。
「おい、おい、田口!……俺だよ。」
 痛くない方の手を振ると、伝令は、よう/\栗本に気がついたらしかった。が二人の間には、膝から下を切断し、おまけに腹膜炎で海豚《ふぐ》のように腹がふくれている患者が担架で運んで来られ、看護卒がそれを橇へ移すのに声を喧嘩腰にしていた。栗本は田口がやって来そうにないのを見て、橇からおりて雪の中の馬の頭のさきを廻って行った。
「俺《お》ら、今日帰るんだ。」彼は、帰れることに嬉しさを感じながら、「みんなによろしく云って呉れ。」
 田口は、何か訳の分らないことを呟いて、当惑そうな色を浮べた。そして、こゝから又セミヤノフカへ一個大隊分遺される、兵士が足らなくて困っている、それに関する訓令を持って来た、と云った。一個大隊分遣される、それゃ、内地へ帰る傷病者の知ったことじゃない。が、田口のなんか事ありげな気配で栗本は直ぐ不安にされた。
「また突発事件でもあったんか?」
 田口は、今、こゝへ来しなにメリケン兵の警戒隊に喧嘩を吹っかけられた、と告げた。二三日前、将校が軍刀を抜いたのがもとで、両方が、いがみ合っている。メリケン兵とも衝突するかもしれない。
 そこへ軍医が出て来た。あとから、看護長がついてきた。その顔に一種の物々しさがあった。
「みんな一っぺん病室へ引っかえすんだ。」
 軍医の声は、看護長の物々しさに似ず、悄然としていた。
 負傷者は、一寸見当がつかなかった。なんでもないことのようであもあり、又、非常な突発事件のようでもあった。彼等は乗込んだ橇から暫らく立上ろうとしなかった。そこらにいた看護卒も軍医の言葉を疑うものゝのようにじいっとしていた。しばらく、さら/\と降る雪の音ばかりがあった。
「一っぺん病院へ引っかえせ!」相変らず、軍医の声は悄然としていた。
「雪が降るからですか?」
 誰れかがきいた。
「うゝむ。」
「じゃ、雪がやんだら帰れるんですね?」
 返事がなかった。
 軍医の云ったことが間違いでないのを確めた看護卒は、同じ言葉を附近の負傷者に同情を持たぬ声で繰りかえした。
 栗本は、脚がブル/\慄えだした。
「俺等をかえさんというんじゃあるまいな?」
 田口は、また困ったような顔をして答えなかった。
 栗本は、一本の藁にでもすがりたい気持をかくして、殊更、気軽く、
「こっちの中尉がメリケン兵を斬りつけたんが悪かったんかい?」と重ねてきいた。
「あゝ。」田口は気乗りのしない返事をした。「それで悶着がおこってきたんだ。」
「だって、あいつら、偽札を使ってたんじゃないか。」
 田口は、メリケン兵を悪く云うのには賛成しないらしく、鼻から眉の間に皺をよせ、不自然な苦い笑いをした。栗本は、将校に落度があったのか、きこうとした。が、丁度、橇からおりた者が、彼のうしろから大儀そうにぞろ/\押しよせて来た。彼は、それをさきへやり過ごそうとした。みんな防寒具にかゝった雪を払い払い彼につきあたって通った。ブル/\慄えている脚はひょろ/\した。彼は、道の真中にある石のように邪魔になった。看護卒がやかましく呶鳴った。
 脇へよけようと右を向くと、軍医が看護長に、小声で、
「橇は、うまく云ってかえして呉れんか。」
 そう云っているのが聞えた。彼は、軍医の顔をみつめた。そこに何か深い意味があるように感じた。軍医は、白い顔を傷病者の視線から避け、わざと降る雪に眼を向けていた。
 栗本は、ドキリとした。もう、如何に田口から委しいことをきいても、取りかえしはつかない、と感じた。
 病室の入り口では護送に行く筈だった看護卒が防寒服をぬぎ、帯剣をはずして、二三人で、何かひそ/\話し合っていた。負傷者が行くと、不自然な笑い方をして、帯皮を輪にしてさげた一人は急いで編上靴を漆喰に鳴らして兵舎の方へ走せて行った。
 患者がいなくなるので朝から焚かなかった暖炉《ペーチカ》は、冷え切っていた。藁布団の上に畳んだ敷布と病衣は、身体に纒われて出来た小皺と、垢や脂肪《あぶら》で、他人が着よごしたもののようにきたなかった。
「あゝ、あゝ、まるで売り切りの牛か馬のようだ。好きなまゝにせられるんだ!」
 彼等は、すっかりおさらばを告げて出て行った筈のベッドへまた逆戻りした。大西は、いつもの元気に似ず、がっかりして、ベッドに長くなった。
「ほんまに家《うち》まで去んでみにゃ、どんなになるか分りゃせん。」
 あの封筒に這入ったもの一ツが、梶を反対の方向にねじ向けてしまった。彼等はそれを感じていた。梶は、又、弾丸が降ってくる方へ向けられた。アルファベットを操る間絶えず胸に描いていた美しい、魅力のある内地が、あの封筒一ツに覆がえされてしまった。
 栗本は、ベッドに腰かけて、心の動揺と戦った。茅葺きの家も、囲炉裏も、地酒も、髯みしゃの親爺も、おふくろも――それらは安らかさと、輝かしさに満ちている――すべてが自分から背を向けて遠くへ飛び去ってしまった。内地へ帰りたさに、どれだけ目に見えぬ心を使ったか! 一寸した将校のしわざが、俺等に祟って来るのだ! 下らんことのために、こゝに居る者の願望が根こそぎ掘り取られてしまうのだ。これからさき、どうなることか!
 二重硝子の窓を通して、空の橇が馭者だけを乗せて、丘の道を一列につゞいて下るのが見えた。馬は、人を乗せなかったことが嬉しいかのように奔放にはねていた。粉雪は一層数を増して斜に、早いテンポでさら/\と落ちていた。
「そうだ、あたりまえなら、今頃、あの橇で辷っている時分だ!」
 彼は、ふと、こんなことを考えた。
 伍長は、手箱の湯呑をいじっていたが、観音経は忘れたかのように口にしなかった。
「俺ゃ、また銃を持てえ云うたって、どうしろ云うたって、動けやせん!」骨折の上等兵は泣き顔をした。

      八

 錆のきた銃をかついだ者が、週番上等兵につれられて、新しい雪にぼこ/\落ちこみながら歩いて行った。一群の退院者が丘を下って谷あいの街へ小さくなって行くと、またあとから別の群が病院の門をくゞりぬけて来た。防寒帽子の下から白い繃帯がはみ出している者がある。ひょっくひょっく跛《びっこ》を引いている者がある。どの顔にも久しく太陽の直射を受けない蒼白さと、病人らしいむくみがあった。その顔に銃と、弾薬盒と、剣は、どう見ても似つかわしくなかった。
 珍らしく晴れ渡った朝だ。しかし、下って行く者は、それをたのしむ色はなく、顔は苦りきっていた。
 中隊では、彼等が帰って来るのを待っていた。セミヤノフカへ分遣する部隊に加えるか、メリケン兵に備える部隊に加えるか、そのいずれかだ。アメリカの警戒隊は、大きい銃をかついで街をねり歩いていた。意地の悪い眼を光らせ、日本の兵営附近を何回となく行き来した。それは、キッカケが見つかり次第、衝突しようと待ちかまえている見幕だった。中隊では、おだやかに、おだやかにと、兵士達を抑制していた。しかし、兵員は充実して置かなければならなかった。
 二三人の小人数で、日本兵が街を歩いていると、武器を持ったアメリカ兵は、挑戦的につめよって来た。
 兵士はヒヤ/\した。同時に、なんとも云えない不愉快な反撥したい感情を味わった。それは、朝鮮人が日本人に対して持つ感情だ。そんな気がした。彼等は、わざと知らぬ振りをして、而も、メリケン兵が居る側へ神経を集中して通りぬけなければならなかった。が、向うから、こっちを打った場合、それでもおだやかにと心掛け、打たれていることが出来るか。いや、それは出来ない。で、兵士の数を負けないだけ無理やり、ふやしておかなければならなかった。セミヤノフカへ一個隊行かなければならなことは、こゝで大きな打撃だった。
 聯隊の二階では、長靴に拍車をつけたエライ人が、その拍車をがち/\鳴らしながら、片隅の一室に集って何か小声で話し合った。それから伝令が走らされたのだった。……
 大西も、栗本も、腰に弾丸がはまった初田も週番上等兵につれられておりてきた。
「こんなに、さわったらころびそうな連中を引っぱり出して鉄砲をかつがせるって法があるかい!」その群《むれ》の一人が云った。
「数が足らんのだよ。」
「足らんだって、病人を使う法があるか!」
 彼等の胸は、強暴な思想と感情でいっぱいだった。
 彼等は、橇から引っかえした日に、一人一人、軍医の診断を受けた。それが最後の試験だった。それによって、内地へ帰れるか、再び銃をかついで雪の中へ行かなければならないか、いずれかに決定されるのだった。
 病気を癒すことにかけては薮医者でも、上官の云ったことは最善を尽くして実行する、上には逆わない、そういう者の方が昇級は早い。軍医は、その軍隊のコツを十分呑みこんでいた。兵タイを内地へ帰えすと約束して、まだその舌の端が乾かないうちに、反対に戦場へ追いやるのは随分ツライ話だ。が、彼は、そのツライ話を実行しなければならないと考えた。
 負傷者は、今、内地へ帰れなかったら、この次、いつ内地へ帰れるか、さきは暗闇だった。――鉄橋からの墜落、雪の中の歩哨、爆弾戦、忌々しいメリケン兵などが彼等の前に立ちふさがっているばかりだった。そこで彼等は、再び負傷か、でなければ、黒龍江を渡って橇で林へ運ばれて行く屍の一ツにならなければならないのだ。それは、堪え難かった。彼等は、知らず識らず傷をひどく見せ、再び役には立たん人間のように軍医に見せようと努めた。
 軍医は、診断にやって来る兵士が、どれもこれも哀れげな元気のない顔をしているのを見た。
「私は、内地へ帰らして下さい!」
 その眼は、純粋な憐れみを乞うていた。
「どうだ、もう並食を食うとるんだろう?」
 軍医は、上唇を横にかすり取られた幼なげな男に、こうきいた。
「はい。」
「どれ、口を開けてごらん?」
 この男は、アングリ口を開けて見せた。
「よし! もうよくなっとるね。」
 そして、彼は、診断室を出て行くように、合図に手を動かした。その男は「よし」という声で中隊へかえされると感じて、
「私は、いつ、再び弾丸が降って来る下へ追いやられるような悪いことをしたんです!」
 と、子供らしい眼で訴えた。そして、そこら中を見まわした。軍医の表情には冷たい、固いものがあるばかりだった。
 その少年は、もう一度、上唇のさきが無くなった口を哀れげに拡げた、
「こんなにおとなしい無抵抗な者を殺してもいゝんですか!」と云うような眼をした。
「この眼に負けちゃいかん!」軍医は自分を鞭打った。
 耳朶《みゝたぶ》のちぎれかけた男も、踵をそがれた男も、腰に弾丸のはまった男も、上膊骨を折った男も、それ/″\、憐れみと、懇願の混合した眼ざしを持って弱々しげに這入ったきた。内地へ帰りたい慾求は誰れにも強かった。
「どいつも、こいつも、病気を誇張してやがるぞ!」軍医は考えた。
 栗本も同様に、憐れみを乞い求める眼と、弱々しげな恰好をして、軍医の前へやって行った。彼は、シベリアに残されるのだったら軍医の前にへたばろうと考えた位いだ。
「どうだな?」
「傷の下になんかこりのようなものが出来とるんですが。」
「手を伸ばせるかい?」
「いゝえ、まだ伸びません。」
「これを握ってごらん。」
 
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