音の間から英語のアクセントかゝったロシア語が栗本の耳にきた。
「止まれッ!」
 ロシアの娘を連れ出したメリケン兵が酒場から帰って来る時分だ。
「止まれッ!」
 馭者のチョッ/\という舌打ちがして、橇は速力をゆるめた。
「誰だ?」
「心配すんねえ!……えらそうに!」
 声で、アメリカ兵であることが知れた。と同時に、別の弾力性のある若い女の声が闇の中にひゞいた。声の調子が、何か当然だというように横柄にきこえた。瞬間、栗本はいつもからの癇癪を破裂さした。暗い闇が好機だという意識が彼にあった。振り上げられた銃が馬の背に力いっぱいに落ちて行った。いつ弾丸の餌食になるか分らない危険な仕事は、すべて日本兵がやらせられている。共同出兵と云っている癖に、アメリカ兵は、たゞ町の兵営でペーチカに温まり、午後には若い女をあさりにロシア人の家へ出かけて行く。そこで偽札を水のように撒きちらす。それが仕事だった。而もその札《さつ》は、鮮銀の紙幣そっくりそのまゝのものだった。出兵が始まると同時に、アメリカは、汽船に二杯、偽札を浦潮へ積みこんできた。それを見たという者があった。
「何で化《ばけ》の皮を引きむいてやらんのだ!」
 兵士達は、偽札を撒きちらされても、強者には何一ツ抗議さえよくしない日本当局の無気力を憤った。メリケン兵は忌々《いま/\》しく憎かった。彼等は、ひまをぬすんで寝がえりを打った娘のところへのこ/\やって行って偽札を曝露した。
「何故?」
 肌自慢の鼻の高いロシアの娘は反問した。
「じゃ、これと較べて見ろ!」
 1カ月の俸給に受取った五円いくらかのその五円札を出して見せた。
「アメリカ人がどうして、日本の偽札を拵えるの? え、どうして拵えるの?」娘は、紅を塗ったような紅い健康そうな唇を舌でなめながら真顔になった。紅い唇はこっちの肉感を刺戟した。ロシアの娘にはメリケン兵の不正が理解せられないところだった。「これが偽札なら、あんた方がこしらえたんでしょう。そうにきまってる! どうしてアメリカ人に日本の偽札が拵えられるの?」
「馬鹿云え、俺等が俺等の偽札を使うか!」彼等は裏から敵を落すことを知らなかった。
「アメリカ人はずるいんだ。だから弗の偽札は拵えずに、円の偽札を拵えるんだ。ろくな奴じゃない!」
 娘は、十五でもう一人前の女になっていた。脚の丈夫な、かゝとの高い女靴をはいて歩く時の恰好が、活溌で気色がよかった。日本の女には見られない生々さがあった。
 彼等は、ロシア人の家へ遊びに行くひまが、偸まなければできなかった。勿論偽札はなかった。しかし、何故、彼等ばかりが進んでパルチザンをやっつけに出しゃばらなければならないのだろう! そして、女はメリケン兵に取られてしまわなければならないのだ! そうして、ロシア人から憎悪と怨恨を受けるのは彼等ばかりだ。彼は、アメリカ兵が忌々しく、むず/\した。アメリカは、日本軍を監視するために出兵しているのだ。全く泥棒のような仕業に、自分達だけをこき使う司令官を「馬鹿野郎!」と呶鳴りつけてやりたかった。
 栗本は闇を喜んだ。殴られた馬は驚いてはね上った。橇がひっくりかえりそうに、一瞬に五六間もさきへ宙を辷った。アメリカ兵は橇の上から懐中電燈でうしろを照した。電気の光りで大きい手を右のポケットに突っこんで拳銃《ぴすとる》を握るのがちらっと栗本に見えた。
「畜生! 撃つんだな。」
 彼は立ったまゝ銃をかまえた。その時、橇の上から轟然たるピストルのひゞきが起った。彼は、引金を握りしめた。が引金は軽く、すかくらって辷ってきた。安全装置を直すのを忘れていたのだ。
「どうした、どうした?」
 ピストルに吃驚した竹内が歩哨小屋から靴をゴト/\云わして走せて来た。
 栗本は黙って安全装置を戻し、銃をかまえた。橇は滑桁の軋音を残して闇にまぎれこんだ。馬の尻をしぶく鞭の音が凍る嵐にもつれて響いてきた。
「どうした、どうした?」
「逃がしたよ。」
「怪我しやしなかったかい?」
「あゝ、逃がしちゃったよ。」
 栗本の笑う白い歯が闇の中にあった。

      四

 馬が苦しげに氷上蹄鉄を打ちつけられた脚をふんばって丘を登ってきた。岩に乗り上げた舟のように傾いた橇の底では兵士が、でこぼこのはげしい道に動揺するたび、傷を抑えて歯を喰いしばった。
「おや、また入院があるぞ。ウェヘヘ。」
 観音経を唱えていた神経衰弱の伍長が、ふと、湯呑をチンチン叩くのをやめた。
 負傷者は、傷をかばいながら、頭を擡げて窓口へ顔を集めた。五六台の橇が院庭へ近づいてきた。橇は、逆に馬をうしろへ引きずって丘を辷り落ちそうに見えた。馭者台からおりた馭者はしきりに馬の尻を鞭でひっぱたいていた。
「イイシへ行った中隊がやられたんだ。ウェヘヘッヘ。」
 伍長は嬉しげに頓狂に笑った。
「何がおかしいんだ! 気狂い!」
 やかましく騒ぐ音が廊下にして、もう血のしみ通った三角巾で思い/\にやられた箇所を不細工に引っくゝった者が這入ってきた。どの顔も蒼く憔悴していた。
 脚や内臓をやられて歩けない者は、あとから担架で運ばれてきた。
「あら、君もやられたんか。」大西は、意外げに、皮肉に笑った。「わざと、ちょっぴり怪我をしたんじゃないか?」
「…………。」
 腕を頸に吊らくった相手は腹立たしげに顔をしかめた。
「なか/\内地へ帰りとうて仕様がなかったんだからな。」
 それにも相手は取り合わなかった。そして釦《ボタン》をはずした軍衣を、傷が痛くてぬげないから看護卒にぬがして呉れるように云った。痛がって、やっと服を取ると、血で糊づけになっている襦袢が現れた。それは、蒼白に、がく/\顎を慄わしている栗本だった。
 看護卒は、負傷者にベッドを指定すると、あとの者を連れに、又、院庭へ出て行った。
 さま/″\の溜息、呻き、訴える声、堪え難いしかめッ面などが、うつしこまれたように、一瞬に、病室に瀰漫《びまん》した。血なまぐさい軍服や、襦袢は、そこら中に放り出された。担架にのせられたまゝ床の上に放っておかれた、大腿骨の折れた上等兵は、間歇的に割れるような鋭い号叫を発した。と、ほかの者までが、錐で突かれるようにぶる/\ッと慄え上った。
「こんなに多くのものが悉く内地へ帰されるだろうか。そんなことをすれば一年内に、一個聯隊の兵士がみんな内地へ帰ってしまわなければならないだろう。だが、そんなことはさせまい。――このうちから幾人かはシベリアに残されるんだ。」さきから這入っている者はそういうことを考えた。
 軽い負傷者は、
「俺《おれ》ゃシベリアに残される、その一人に入れられやしないかな?」心でそれを案じた。そして、なま/\しい傷を持って新しく這入って来た者に、知らず識らず競争と反感の爪をといだ。
「どこをやられたんだ? どんなんだ?」
 頭を十文字に繃帯している三中隊の男が、疚《やま》しさを持った眼で、まだ軍医の手あてを受けない傷をのぞきこみにきた。
「骨をやられてやしないんだな?」
 栗本は、何を意味するともなく、たゞうなずいた。
「そうかい。」
 と、疚しさを持った眼は、ほッとしたように、他のベッドに向いた。そこで、又何か訊ねた。隣の病室でも、やかましく呻きわめく騒音が上りだした。
 栗本は、何か重要なことを忘れてきたようで、焦点のきまらない方に注意を奪われがちだった。すべてが紙一重を距てた向うで行われているような気がした。顛覆した列車の窓からとび出た時の、石のような雪の感触や、パルチザンの小銃とこんがらがった、メリケン兵のピストルの轟然たる音響が、まだ彼の鼓膜にひゞいていた。
 腕はしびれて重かった。それは、始め火をつけたようにくゎッ/\と燃え立っていたが、今では反対に冷え切って義足のように感覚も温度もなかった。出血を止めるため傷の上方をかたく紐で縛りつけた。それで手の方へは殆んど血が通わなくなっているのだった。腕は鉛の分銅でも吊るしているように重かった。
「あゝ、たまらん。早よ軍医殿にそう云って呉れろ!」
 着かえたばかりの病衣に血がにじみだした。
「辛抱しろ!」通りかゝった看護卒がちょっと眼をくれた。と、その眼が急に怖く光ってきた。そして血に染まった病衣をじっと見つめた。「何だ、仕様がないじゃないか! 早や洗濯したての病衣を汚しくさって!」
「あゝ、たまらん! あゝ、たまらん! おゝい! おゝい!」
 呻きはつゞいて出てきた。
 栗本は負傷することを望んでいた。負傷さえすれば、すぐ内地へ帰れると思っていた。そこには、母や妹や鬚むじゃの親爺が、彼の帰りを待っている。が、その母や、妹や、親爺は、今、どうしても手が届かない、遥かな彼方に彼とは無関係に生きているのだ。誰れも彼に憐れみの眼光を投げて呉れる者はなかった。看護卒は、たゞ忙しそうに、忙しいのが癪に障るらしく、ふくれッ面をして無慈悲にがたがたやっていた。昨日まで同じ兵卒だったのが、急に、さながら少尉にでもなったように威張っていた。
「誰れも俺等のためなんど思って呉れる者は一人も有りゃしないんだ。」栗本はベッドの上で考えた。「みんな、自分勝手なことばかりしか考えてやしないんだ!」
 ――彼は、内地の茅葺きの家を思い浮べた。そこは、外には、骨を削るような労働が控えている。が、家の中には、温かい囲炉裏、ふかしたての芋、家族の愛情、骨を惜まない心づかいなどがある。地酒がある。彼は、そういうものを思い浮べた。――俺だって誰れも省みて呉れん孤児じゃないんだ! それを、どうしてこんな冷たいシベリアへやって来たんだ! どうして!……彼は嘆息した。と、それと一緒に、又哀れげな呻きが出てきた。
「どいつも、こいつも弱みその露助みたいに呻きやがって!」見廻りに来た、恩給に精通している看護長が苦々しく笑った。「痛いくらいが何だい! 日本の男子じゃないか! 死んどる者じゃってあるんだぞ。」
 右を見ると、よく酒保の酒をおごって呉れた上等兵が毛布の下に脚を立て、歯を喰いしばりじっと天井を見つめていた。その歯の隙間から唸る声が漏れていた。看護長の苦々しげな笑いに気がつく余裕さえ上等兵には無いようだった。
「自分がうるさいから叱っているんだ。」と栗本は考えた。「俺等のためなんど思っても呉れやせんのだ! どうしてこんなところへやってきたんだ! どうして、あんな引っくりかえされる列車に乗って行ったんだ!」
 と、又溜息が出て、呻かずにはいられなくなった。
 ――遠いはてのない曠野を雪の下から、僅かに頭をのぞかした二本のレールが黒い線を引いて走っている。武装を整えた中隊が乗りこんだ大きい列車は、ゆる/\左右に眼をくばりつゝ進んで行った。線路に添うて向うの方まで警戒隊が出されてあった。線路は完全に、どこまでも真直に二本が並んで走っている。町は、まもなく見えなくなり、列車は速力が加わってきた。線路は谷間にかゝり、やがてそこを通りぬけて、また曠野へ出た。
 雪は深く、線路も、草原も、道もすべてが掃きならされたようだった。そこらの林や、立木が遠い山を中心に車窓の前をキリ/\廻転して行った。いつか、列車は速力をゆるめた。と、雪をかむった鉄橋が目前に現れてきた。
「異状無ァし!」
 鉄橋の警戒隊は列車の窓を見上げて叫んだ。
「よろしい! 前進。」
 そして、列車は轟然たる車輪の響きを高めつゝ橋にさしかゝった。速力は加わったようだった。線路はどこまでも二本が平行して完全だった。ところが、中ほどへ行くと不意にドカンとして機関車は脚を踏みはずした挽馬のように、鉄橋から奔放にはね出してしまった。
 四角の箱は、それにつゞいてねじれながら雪の河をめがけて顛覆した。
 と、待ちかまえていたパルチザンの小銃と機関銃が谷の上からはげしく鳴りだした。……
 日本軍の攻撃が厳重になればなる程、パルチザンの怨恨と復仇は鋭利になった。そして、それを慰むべき手段は次第に潜行的に、意表に出てくるのだった。
 線路には、爆破装置が施されているのではなかった。破壊されているのでもなかった。たゞ、パルチザンは、枕木の
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