れ渡った朝だ。しかし、下って行く者は、それをたのしむ色はなく、顔は苦りきっていた。
 中隊では、彼等が帰って来るのを待っていた。セミヤノフカへ分遣する部隊に加えるか、メリケン兵に備える部隊に加えるか、そのいずれかだ。アメリカの警戒隊は、大きい銃をかついで街をねり歩いていた。意地の悪い眼を光らせ、日本の兵営附近を何回となく行き来した。それは、キッカケが見つかり次第、衝突しようと待ちかまえている見幕だった。中隊では、おだやかに、おだやかにと、兵士達を抑制していた。しかし、兵員は充実して置かなければならなかった。
 二三人の小人数で、日本兵が街を歩いていると、武器を持ったアメリカ兵は、挑戦的につめよって来た。
 兵士はヒヤ/\した。同時に、なんとも云えない不愉快な反撥したい感情を味わった。それは、朝鮮人が日本人に対して持つ感情だ。そんな気がした。彼等は、わざと知らぬ振りをして、而も、メリケン兵が居る側へ神経を集中して通りぬけなければならなかった。が、向うから、こっちを打った場合、それでもおだやかにと心掛け、打たれていることが出来るか。いや、それは出来ない。で、兵士の数を負けないだけ無理やり、ふやしておかなければならなかった。セミヤノフカへ一個隊行かなければならなことは、こゝで大きな打撃だった。
 聯隊の二階では、長靴に拍車をつけたエライ人が、その拍車をがち/\鳴らしながら、片隅の一室に集って何か小声で話し合った。それから伝令が走らされたのだった。……
 大西も、栗本も、腰に弾丸がはまった初田も週番上等兵につれられておりてきた。
「こんなに、さわったらころびそうな連中を引っぱり出して鉄砲をかつがせるって法があるかい!」その群《むれ》の一人が云った。
「数が足らんのだよ。」
「足らんだって、病人を使う法があるか!」
 彼等の胸は、強暴な思想と感情でいっぱいだった。
 彼等は、橇から引っかえした日に、一人一人、軍医の診断を受けた。それが最後の試験だった。それによって、内地へ帰れるか、再び銃をかついで雪の中へ行かなければならないか、いずれかに決定されるのだった。
 病気を癒すことにかけては薮医者でも、上官の云ったことは最善を尽くして実行する、上には逆わない、そういう者の方が昇級は早い。軍医は、その軍隊のコツを十分呑みこんでいた。兵タイを内地へ帰えすと約束して、まだその舌の端が乾かないうちに、反対に戦場へ追いやるのは随分ツライ話だ。が、彼は、そのツライ話を実行しなければならないと考えた。
 負傷者は、今、内地へ帰れなかったら、この次、いつ内地へ帰れるか、さきは暗闇だった。――鉄橋からの墜落、雪の中の歩哨、爆弾戦、忌々しいメリケン兵などが彼等の前に立ちふさがっているばかりだった。そこで彼等は、再び負傷か、でなければ、黒龍江を渡って橇で林へ運ばれて行く屍の一ツにならなければならないのだ。それは、堪え難かった。彼等は、知らず識らず傷をひどく見せ、再び役には立たん人間のように軍医に見せようと努めた。
 軍医は、診断にやって来る兵士が、どれもこれも哀れげな元気のない顔をしているのを見た。
「私は、内地へ帰らして下さい!」
 その眼は、純粋な憐れみを乞うていた。
「どうだ、もう並食を食うとるんだろう?」
 軍医は、上唇を横にかすり取られた幼なげな男に、こうきいた。
「はい。」
「どれ、口を開けてごらん?」
 この男は、アングリ口を開けて見せた。
「よし! もうよくなっとるね。」
 そして、彼は、診断室を出て行くように、合図に手を動かした。その男は「よし」という声で中隊へかえされると感じて、
「私は、いつ、再び弾丸が降って来る下へ追いやられるような悪いことをしたんです!」
 と、子供らしい眼で訴えた。そして、そこら中を見まわした。軍医の表情には冷たい、固いものがあるばかりだった。
 その少年は、もう一度、上唇のさきが無くなった口を哀れげに拡げた、
「こんなにおとなしい無抵抗な者を殺してもいゝんですか!」と云うような眼をした。
「この眼に負けちゃいかん!」軍医は自分を鞭打った。
 耳朶《みゝたぶ》のちぎれかけた男も、踵をそがれた男も、腰に弾丸のはまった男も、上膊骨を折った男も、それ/″\、憐れみと、懇願の混合した眼ざしを持って弱々しげに這入ったきた。内地へ帰りたい慾求は誰れにも強かった。
「どいつも、こいつも、病気を誇張してやがるぞ!」軍医は考えた。
 栗本も同様に、憐れみを乞い求める眼と、弱々しげな恰好をして、軍医の前へやって行った。彼は、シベリアに残されるのだったら軍医の前にへたばろうと考えた位いだ。
「どうだな?」
「傷の下になんかこりのようなものが出来とるんですが。」
「手を伸ばせるかい?」
「いゝえ、まだ伸びません。」
「これを握ってごらん。」
 
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