る筈の陳がまだ帰ってこないからだ。
アカシヤの樹の下には、カギをつけた長い竹竿で、子供達が、白い藤のような花を薄暗い街燈にすかして、もぎ取ろうと肩が凝るほど首を上に向けきっていた。その子供達は、よう/\垂れだした花を昼間から、夜にかけてあさっていた。彼等は、その花をむしり取って食べるのだ。
枝がカギにひっかけられて、ポキンと折れていた。
「枝まで、折っちまっちゃア、駄目じゃないか!」
ひもじい子供たちは、花を食って、おなかをこしらえる。
「お、おい、山崎(しゃき)さん!」
幾分びっくりした叫声に、ほかのことを考えていた山崎は、ぎくっとした。洋車をとめると、福隆火柴《フールンホサイ》の小山がおりてきた。工場内で、工人を慄えあがらし、えらばっている小山は、通りへ出ると顎が落ちて、燐くさく、芯が頼りなげに、ひょろ/\していた。
「山東軍は散々な敗北でしゅよ。」小山は、サシスセソがはっきり云えなかった。骨壊疽《こつえそ》で義歯を支えていた犬歯が抜け落ち、下顎の門歯がとれてしまったのだ。「あの勇敢なコシャック騎兵までが逃げてきまひた。」
他人事でないという小山の意気込み方である。
「この様子では、これゃ、どうしゅたって、共産主義がこっちまでやってきましゅぞ。」真に大事だという話し振りで、「早よ、内地へ軍隊をくり出しゅように云ってやって貰わなけゃ、財産(しゃん)や工場だけじゃない、頭やチンポまで引きちぎられてしゅまいますぞ!」
「ロシヤ兵は、今、退却してきたんですか?」
「ええ、ええ、やっぱし、(し[#「し」に傍点]がうまく云えなかった)郭店の方から、歩いてやって来たんだ。あんまり馬を馳《はし》らせしゅぎたもんだから、半分は、馬が途中で斃《たお》れてしゅまったんだそうだ。――今、やって来ましゅよ。これゃ、どうも、こんな風じゃ、どこかで、だいぶ蒋介石に尻押しをしてる奴があるんだな。わしゃ、どうも、そう睨む。」
「今夜中に、さぐっちまって、電報を打たなけゃ、ほかの奴等に先を越されるんだ!」「陳は、何をしてやがるんだろう。」彼はいらいらした。「もう、どうしたって、今夜中だ。明日の晩となれば、おそい。誰か、外の奴にしてやられちまう。」
状勢がひっ迫するに従って、五六人の彼の同僚が、方々から、ここをめがけてはいりこんできていた。
二|馬路《マル》通りに、乱れた、元気のない、跛をひくような蹄《ひづめ》の音がひびいた。跛の数は多い。
「そら、やってきだひた。やってきだひた。」
と、小山は云った。そして音響のくる方へ歩きだした。
やがて、何分間かたつと、せいのひくい、毛並のきたない、支那馬にまたがった白露兵がぐったりして、長靴を、地上に引きずりそうに、だらりと垂れて、薄暗い街燈の光の中に姿を現わした。
「こいつら、支那兵よりゃ、よっぽど強い手あいなんだがなア。」
小山は惜しげに云った。
馬を乗り斃してしまった連中は、跛を引きながら、脚をひきずっていた。それは、とぎれ、とぎれに、遠く、駅前通りの方にまでつゞいていた。途中でどっかへまぎれこんでしまった者もあると云う。
月給の不渡りと、食糧の欠乏と、張宗昌の無理強いの戦闘に、却って戦意を失ってしまった。彼等は、泰山を越して逃げ帰った連中だ。そのうちの一部だ。塩を喰わされた蛭《ひる》のようだった。へと/\で、考えることも、観察することも、軍刀を握りしめる力もすっかり失って、たゞ惰性的に歩いている。立ち止まったら、もう、そのまゝそこでへたばってしまいそうだ。
「こいつらは、支那兵よりゃ、よっぽど強い手あいなんだがなア。」小山は繰りかえした。「あいつらが逃げて来るようじゃ、こゝが陥落するのも、もう時間の問題だ。」
その時、向う側のアカシヤの並木の通りで、ブローニングの音が一発して、誰れかが、乱雑な白露兵の列を横切って、こちらへとぶように走り出してきた。つゞいて、もう一発、銃声がした。山崎と、小山は、思わず立止まって、はっとした。逃げる男が二人の方へ突進してくる。従って銃口も二人が立っている方向へむけられている。と、瞬間に感じた。
疲憊《ひはい》しきった白露兵は、銃声にも無関心だった。振りむきもしなかった。
突進して来る男は、すぐ二人の前に来た。山崎は、眼のさきへ来た時、それが、陳長財《チンチャンツァイ》だと気づいた。
「なに、まご/\してるんだ。馬鹿野郎!」彼は、いまいましげに怒鳴った。
「何をしてやがったんだい、今までも!」
が陳は、敏捷に山崎の前をとびぬけて、猿のように、家と家との間の狭い、暗いろじ[#「ろじ」に傍点]へもぐりこんでしまった。
「馬鹿野郎! 本当に仕様のない奴だ! 畜生!」
「知ってる奴でしゅか?」
小山は訊いた。
「あいつですか、あいつは、手におえん奴ですよ。使ってる奴ですがね、滑稽な奴で、二時間もどっかでぐず/\してやがって……」
陳長財は、現在、山崎にとって、ごく必要な人物だった。彼は、もと、上海の碼頭《はとば》苦力《クリー》だったという話である。中津が、青島から帰りに、周村でつれてきて、呉れてよこした男だ。
中津は陳を呼んで、魚心があれば水心だ。それ相当のむくいをしてやる。が、俺れと、俺れの兄弟を裏切るような行為をしくさったくらいにゃ、生かしては置かないぞ。お前だけじゃない、お母アをも生かしちゃ置かないから、と数言を費した。
「こいつは昨日まで南軍の密偵をつとめたかと思うと、今日は、早や、こっちへ寝がえりを打つような奴なんだから[#「なんだから」は底本では「なんだからら」]。」と、中津は、山崎に注意した。「ちびり/\しか金をやらないのに限るんだ。前金でも渡したら、もう、手にとれなくなっちまうぞ。君が、しょっちゅう、こいつをキュウキュウさしとく必要があるんだ。」
それから、又、
「こいつの云うことを、まるきり信用してかゝっちゃ駄目だよ。――それゃ、云うまでもないこっちゃが、支那人は金にさえなると思ったら、どんなありそうなことでもねつ[#「ねつ」に傍点]造して持って来る奴なんだから。」
「うむ、分ってる、分ってる。」と、山崎は答えた。
陳は、独逸から送った武器の送り状とか、それを荷役している現場の写真、弾薬を受取った受取り、など、そんな重要な証拠物件を、どこからか手に入れていた。云いつけると、外交部から交付される筈の、外国へのパスポートまで、ちゃんと、印まで間違いのない印を捺《お》して拵《こさ》えてきた。だから、日本でパスポートがおりない者でも、ここで、支那人に化けて、支那の名前をつけさえすれば、陳の手でロシヤへのだって作ることができた。間違いのない筆で、領事館の裏書までしてあった。面白い。
「また、やってるな!」
山崎と歩いていると、ふと、見知らぬ男が、陳に、にやにや笑いかけて行きすぎることがある。一日に、二人や三人は、そんなえたいの知れない奴に出会した。この男は、どんなところへでも頸を突きこんでいるらしかった。
「今のは何者だい。」
「あれですか、なに、あいつは、ジャンクに乗ってた時、一緒に働いてた船方でがすよ。あれで、今なか/\金をしこたまこしらえてるんでがすよ。」
「貴様、しょっちゅう知り合いに出会すが、一体、こゝだけに何人知り合いがあるんだい?」
「僅かしかありゃしねえでがすよ、顔を知っとる奴なら、三百人もありますべえか。」
「馬鹿野郎! 三百人が僅かかい……」
こいつほど、人の懐中《ふところ》を見抜くことに機敏な奴はなかった。スリよりも機敏だった。その点、山崎自身も警戒してかゝらなければならなかった。支那で金を多額に懐中していることは、ズドンとやられる機会を、より多く持つことだ。
陳は、蒋介石の北上と共に、だん/\はいりこんで来た南軍の密偵と、便衣隊について調べるため街に出かけたのだ。そこで、金を持っている人間から、金をくすねようとして、やりそこなったのか、それとも、便衣隊にあんまりひつこくつきまとって、あやしく思われ、発砲されたのか、今、不意に逃げ出して来たのだ。
一四
約、二時間の後、二人は、城東のS大学へ洋車を走らしていた。
その大学は、日本軍と、南軍の衝突の際、盛んに活躍した便衣隊の本拠となったところである。日本の兵士は、その便衣隊に、さんざんなやまされた。それは、パルチザンと同じだった。彼等はすきをうかがって躍り出したかと思うと、すぐ安全な地帯へ逃げこんでしまった。
三千人の将卒が、総がかりで、その便衣隊を追っかけまわした。しかし、一人をも本当の奴を捕まえることが出来なかった。
彼等は、普通の良民と、同じような服装をしていた。兵士には、支那人なら、どれもこれも同じように見えた。安全地帯はアメリカ人の学校だった。
山崎は、陳から、そうらしいという話をきいた。そして、その便衣隊の巣へ這入りこんで見とどけよう、と決心した。陳長財の報告は、七割まではあてにならない。しかし、これだけは、本当だ、という直観が山崎にした。彼は、それを確実に突きとめて、今夜中に電報を送ろうと思った。それが出来れば彼は、儕輩《せいはい》を出し抜ける。それからもう一ツ、言葉も、服装も、趣味も、支那人と寸分違わない。彼は、どこへ行ったって、バレる気づかいがない。と思っていた。それを、確実に試験して、自信をつけて置きたかった。
それから、なおもう一ツ、こういう際どい芸当は、彼には、むしろ快楽となる。――これは、一生のうちの、俺の自慢話の種の一つとなるに相違ない、と彼は思った。
敵の陣地へ、しかも、はしっこい、便衣隊の本拠へ乗りこんで行く。これは一生のうちの、誇るに足る、業績の一つとなるに違いない!
俺の一生は、まだこれからだ。まだ/\これから、本当の仕事をやるんだ。人間は、三十代になっても、四十代になっても、なお、未来に期待をかけているものである。が、山崎は、この時、生涯に於て、今、本当の実の入った仕事をやっているのだ。未来ではない、現在だ! と感じた。
陳長財は、射撃されたいきさつを説明した。それから、
「こんな暴虎馮河《ぼうこひょうが》の曲芸は、やめとく方が利口じゃないでがすか。」と、止めた。「今度ア、なかなか奴らの威勢がいいんですよ。」
「いや、俺れゃ、行くんだ。」と、山崎はきっぱり云った。「洋車を呼べ。奴らの威勢がよけりゃよい程こっちは、行ってたしかめてこなけゃならんじゃないか。」
「ズドンと一発やられたあとで、来なけゃよかったと、後悔したって、もう追っつかねえでがすよ。」
「分ってる!」
「わっしゃ、命がけでやる仕事であるからにゃ、ウンとこさ金がほしいなア。目くされ金じゃ、のっけから真平だ。」
「金は、いくらでも出すと云ってるじゃないか。うまく行きさえすりゃ。」
山崎は、さっきから学生服に着かえていた。陳も学生服を着た。
礫《こいし》の多い、凸凹のところどころ崖崩れのある変な道で、洋車は歩くよりも遅くしか進まなくなった。二人は車をおりた。平生は、淋しい、大学に近い郊外の闇の中に、何か動く人の気配が感じられた。
「大丈夫かね。」陳は囁いた。
山崎は、自分でちっとも怖いとは思わなかった。それだのに、脚がひどく力がなく萎《な》えこんだ。脚だけがどうしたのか、つい、五六間も歩いたら、へたばりやしないか、彼は、それを危ぶんだ。
「呀怎※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]着了《ヤソンモチョラ》、※[#「にんべん+爾」、第3水準1−14−45]《ニ》!(おい、どうしていたい。……)」
ひょっと、狭い道を向うからすれ交るとたんに、人かげが声をかけた。が、中途で、人違いだと気づいたらしく、言葉を切って、疑い深げにあとを見かえした。
「蠢東西《チュントンシ》! (馬鹿野郎!)」陳長財は、振りかえりもせずに呶鳴った。
道の附近の、身の丈ほどの灌木の繁っているところにも、なお人が、動いている気がした。夜気がいくらか寒くなったようだ。
第一校舎の脇を通りぬけた。向うのアカ
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