襟の支那人と二人でついてきた。
彼は、中津のあぶない陰謀に、うすうす感づいていた。母と喧嘩をしながら、それでも蜿曲《えんきょく》に、家を留守にしないように繰りかえしていた。母とすれちがいに中津が家へやって行った。――それは、彼には、中津が、卑猥な会心の笑みをもらしている有りさまさえ想像せられた。そして、不安はますます強くされるのだった。
竹三郎は、領事館の留置場で、ヘロインがきれてしまった肉体を、我慢が出来るだけ我慢をした。しかし、どうしても、二十九日の拘留期間を我慢し通すことは出来なかった。彼は、監視の若い巡査の軽蔑と、冷笑をあびながら、唸き死ぬばかりに、ばたばたと肉体的にもだえ苦るしんだ。
昔、村会議員になった。ほかの収賄をやった連中を摘発してやろうとした。そんな時代の颯爽とした面かげは、全く失われてしまった。外科病室の、白いベッドで、看護婦達に押えつけられながら、あばれている黄色ッぽい、死にかけた黄疸患者のような、親爺を見つけて、幹太郎は、まず、それを思った。誰れが、こういうことにしてしまったか! 俺達は、誰からも保護をうけてはいないのだ! 日本人の特典は、貧乏な者には、通用しない特典だ!
若い、男まえの、支那人の医者が、骨ばかりの右の足のさきに、繃帯を巻いていた。巻かれながら親爺はうめいた。
医者は、一見、日本人のような感じがした。親爺のちぎれた趾《あしゆび》からは、紅い血が、ガーゼで拭かれたあとへ、スッスッと涌きあがった。白い繃帯は、巻くそばから紅く染った。
監守の支那人が、いまいましげな顔をしてそばに立っていた。幹太郎が這入って行くと、領事館からついてきた、帽子にエビ茶の鉢巻のついた若い巡査は、二人が、ちょっと顔を見合して室外に出た。幹太郎が、「快上快」を親爺に与えるために持ってきた。それで巡査は気をきかして場をはずした。――そのことは、幹太郎の方へも、すぐ感じられた。
親爺は餓死した屍のように、かん[#「かん」に傍点]骨はとび上がり、眼窩は奥の方へ窪んで、喘ぎ/\呻いていた。
「いっそ、この際、再び麻酔薬を与えぬように我慢をさして、悪い習慣を打ちきる方がいゝんだ!」と息子は思った。
親爺は病的に落ち窪んだ眼で、息子を認めると、扉の外の巡査に聞えるのもかまわず、むずかる子供のように「快上快」を求めた。
「チェッ! 仕方がないなア!」
薬は与えられた。
竹三郎は、如何にも、うまそうに、むさぼり吸った。たてつゞけに、一と匣分の麻酔薬を吸ってしまった。
「苦しゅうて、苦しゅうて、やりきれんからとうとうこんな芸当をやっちまった。洗面器で足の小指をぶち切った。――そうでもしなきゃ、留置場から出られねえんだ。俺れがどんなにのた打ちまわっとったって、領事館の奴はへへら笑っていやがるんだ。」
母と、詰襟の支那人がやってきた。薬がまわった竹三郎は、足の疼痛を忘れた。自分を取りかこんだ者達にはしゃぎ、唇には、足らん男のような微笑さえ浮んだ。
「全くヘロインの虜《とりこ》になっちまったんだ!」と幹太郎は思った。「自分の指を切り落してもヘロインが吸いたいんだ! 指とヘロインの交換! 支那へさえ来ていなければ、そんなことになりゃしなかったんだ! あの村から追い出されさえしなければ、こんなことになりはしなかったんだ!」
彼は恐ろしい気がした。
「もうないか。……もっとねえか、吸わせろい! 吸わせろい!」
親爺は、また、子供のようにせびりだした。
支那には、この竹三郎のように、外国人の手によって持ちこまれる阿片や、モルヒネや、ヘロインの捕虜となっている人間がどれだけあるかしれないのだ! 阿片のために、どれだけの人間が※[#「やまいだれ+隠」、第4水準2−81−77]者《いんじゃ》となり滅されつゝあるか知れないのだ。……
二六
額の禿げ上った、見すぼらしい跛が、炎熱と塵埃にむれている石畳の小路へ這入った。
ヒョク/\して、外見は、えげつない歩き方をしていた。が、身軽るくさッさと歩いた。
暫らくすると、それが、這入った石畳の小路から引っかえしてきた。以前より、もっと身軽るく、片チンバの脚で飛ぶようだった。やがて、洋車を呼ぶと、一足とびにとび乗った。
「早くやれッ!」
洋車は、塵埃と炎熱の巷へ吸いこまれて行った。
小路の奥の、石塀の中の一ツの家では、すゞが、安物の手ミシンにむかって、ドレスを縫ったり、ほぐしたり、また縫ったりやっていた。真直に、平行に行かない縫目が彼女に気に入らないのだ。
天むきの鼻の一郎は、顔じゅうが眼ばかりのように見える。眼が大きく光っていた。去《い》んだトシ子そっくりだ。彼は、俊のそばに這いよった。俊がよんでいるビラを小さい手で荒ッぽく引ったくろうとした。
ビラは、蒋介石の出したビラだ。学校の、漢文読本の漢本とも、またいくらかちがう。俊はなかなかそれが読めなかった。
「ま、待ってなさいよ。」
手で掴み取りに来る一郎を彼女は追いやった。玩具の犬をやる。
――国民政府は、この地方に限り、租税を全額免除する。……
一郎は、犬をほうった。そして、また手を拡げて掴みかかってくる。ビラは皺くちゃになる。俊はそれをのばして、またよんだ。
――張作霖、張宗昌、強盗、強姦、売国的………
ふと、一郎は、両手で彼女の手からビラを叩き落してしまった。紙はずた/\になった。まだ、よみさしである。
俊は、それが惜しいとは思わなかった。彼女は、何か考えていた。すゞは、一心に、ミシンに注意を集中している。針が急速に、規則的に上下する。縫目がジャリ/\と送られて行く。
「ちょっと、あの人、今日、何だか変におかしかったわよ。」
「なアに?」
すゞは空虚な返事だった。
「なにか、たくらみがありそうだったわよ、あの怒ったような眼で、じろ/\家ン中や、私達を見て行っただけじゃないわ。眼と、口もとの笑い方に、恐ろしい何かがあったわよ。」
「そうかしら。」
猫のような俊は、先日からの中津の行動をいろ/\に思い起していた。恐ろしい何かの兆候が、二三日も四五日も前からあった。
「ちょっと! ちょっと!……」
俊[#「俊」は底本では「俟」]はまた姉を呼んだ。……
支那宿の東興桟《トウコウサン》の一室には、張宗昌の退却後、変装をして市街にとゞまっている中津の仲間が集っていた。四五人だ。荒っぽい、無茶な仕事が飯より好きな連中だった。せいの低いずんぐりした唐《タン》は素手で敵の歩哨に掴みかゝって、のど笛を喰い切り、銃と剣を奪ってくるような男だった。金持の娘や、細君を、人質にかっぱらった経験は、みんなが三回や、五回は持っていた。
床篦子《チアンペイズ》、卓子《チオズ》、机子《ウーズ》、花模様の茶壺、旅行鞄、銀貨の山。
中津は、何回となく空想で練り直した掠奪の計画を、実行する段になって、なお、心は迷っていた。いっそ、根本からよしてやろうか。孫娘を可愛がるように、可愛がるのはいゝことだ。その方がいゝかもしれん。こんなに迷うことは、嘗てなかった。が仲間には、それは、おくびにも出さなかった。ともかく実行方法を話した。仲間を三台の自動車に分けて乗らす、日本軍の守備区域を走る時には、山崎に云って、誰何されない交渉をした。和服の娘を無理やり積みこんでいるのを歩哨に目つけられると面倒だからだ。南軍の駐屯している区域にさしかゝると、かねて手に入れておいた、青天白日旗を自動車に立てる。そういうことにした。
二台の自動車は、街を流している。中津は娘を、おびき出してそこへ、歩いて通りかゝる。さきの一台が、急停車をする。刹那に、躍り出た仲間は娘を車中へさらいこむ。中津は、うしろの車に乗ってあとにつゞく。こういう風にきめられた。妹も、子供もついてくれば、三人共、さらって行く。そして、こゝから約四哩の黄河の沿岸の※[#「さんずい+樂」、第4水準2−79−40]口《ロンコー》まで、一息にとばして、そこから天津方面へ落ちのびるのだ。こういう計画だった。若し、すゞが、中津のさそいに乗らなければ、五人が屋内に押し入って行くつもりだった。暴力で拉致《らつち》するよりほかはなかった。金は銀が五百元あった。それから通らない、紙幣が三千五百元あった。
中津は、なお千円ほど工面をしなければならなかった。
同宿の山崎は、頻りに、この暴動を思い止まらせようとするのだった。けちくさい男だ。中津にはそれが、金を貸すのが嫌いだからとめていると取れた。それは急所を突いていた。そして、彼はとめられればとめられるほど、依怙地《いこじ》になった。
「よさないか、おい、そんなことは……」と、山崎は云った。「郷票をかっぱらうんなら、まだ分るが、鐚《びた》一文もない軟派の娘をかっぱらってどうするんだい。ええ、冗談じゃないぜ。」
「黙ってい玉え!」中津は、時刻が迫れば迫るほど、動揺をかくして、糞落ちつきに落ちついていることを示そうとした。
「君が、芯からそんなに熱心なら、なにも、かっぱらわなくたって、結婚を申し込めばいいじゃないか。野蛮な暴力的なことをやらなくたって、正式に娘を貰えばいいじゃないか、それなら俺れだって賛成だ。」
「馬鹿云い玉え!」と中津は笑った。「張大人だって、北京の東安市場《トンアンシーチ》へ行く途中で、ちょっと見た別嬪を早速、自動車へかっぱらって、タイタイとしちゃったじゃないか、俺等にゃ結婚申込なんて、お上品なやり口は、性に合わねえんだ。ほしいものは、どんどん遠慮なしにかっぱらって行く方が、はるかに、面倒くさくなくて愉快じゃないか。」
中津の仲間の赫富貴《ヘイフクイ》は、濁った眼を細めながら、賛成するように頷いた。
「やっぱし、君等は、馬賊の習慣から、ぬけきれねえんだ。」
中津は笑った。
「そんなこというのは、理屈ッぽいあの娘の兄と君だけくらいなもんだよ。この広い支那じゅうで。」
「いいや。俺れゃ真面目に云ってるんだ。君のために。」
「真面目もへったくれも有ッたもんかい!……気に入りゃ、かっぱらって嬶《かかあ》にするし、いやになりゃポイポイ売ッとばすんだ。世話がなくって、どれだけ気しょくがいいか知れめえ!」
「あんまり増長するなってよ! 俺れゃ歩哨線の通過なんか知らねえぞ。」
「ふふふ。……知らなきゃ、知らなくッてもいゝさ。その代り俺れの方もバラシてやるから、――ネタはいくらでも豊富に掴んでんだぞ。」
これはおどかしだった。
集まった五人は、出発前の酒杯をとった。五人に較べると、山崎は、まだ、どこともなく日本人くさい感じが残っていた。さかずきをすゝめてもプリッとしてのまなかった。その身肌につけている五挺の、全部弾薬をこめたピストルは、大褂児の上から、胸に二挺、両脇に二挺、右の腰のポケットに一挺と、一寸した服の凸凹によって見破られた。――このケチン坊、なかなか金を溜めこんでけつかって、人には貸そうとしやがらねえんだ! 中津は、忌々《いま/\》しげに考えた。畜生! こいつは、支那へ奔放自由な生活をたのしみにやって来ているのじゃないんだ。小金をために来てやがるんだ! チェッ! くそッ!
自動車がやってきた。
も一度、中津は正式に嫁に貰って、孫のように可愛がってやったら! と思った。
その方が平和で、その方がよかった。が、もう一歩を河に踏みこんでいた。どうせ、激流でも渡ってしまわなければなるまい!
「さア、出かけるとしようか。」彼は立ちあがった。金が、たりないことにも、気がかゝった。
「ボーイ、毛布はどうしたんだ?」眼を細めて賛成した赫富貴《ヘイフクイ》が云った。「あのロシア毛布を前の車に積んどけ。」赫はまた、快よげに眼を細めた。「――街ンなかを通る時にゃ、女をすっぼり頭からくるんどかないと、今日びの物々しい戒厳では、一寸、仕事がむずかしいからな。あのカーキ服の歩哨に猿轡《さるぐつわ》をはめた女が見つかった日にゃ最後だよ。」
五人の者は、身支度を整えて、廊下へ出た。二階の窓硝子から通行人のポケットへ手を突ッこんでいる青鼠服が見え
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