り云った。「あんな奴等が多いから、支那人は、マッ裸にひきむかれるどころか、肝臓のキモまで掴み取られるんだ。」
「あいつらか、うむ。……あいつらは、女の腐れみたいな野郎さ。」
「さんざん、工場主や、地主に搾られて居りながら、それでもなお、ペコ/\頭をさげて、尾を振らずにゃいられねえ奴隷だよ。あんな奴等は。」高取は、そばの、助平の西崎をもかえり見た。初物《はつもの》食いで、同一の女郎を二度と買った、ためしがないという男だ。
「あんな奴等が一番困りものなんだ。さんざん、ブルジョアから酷使され、搾られ、苦しめられる。それでも、憎むことも、反抗することも知らねえんだ。おべっかを使って、落ちこぼれをめぐんで貰おうと心がけている手あいだ。」
「それは、そやけど、ま、ま、ええやないか。あいつらのゴマすりは、今日に始まったこっちゃないやないか。」西崎は卑猥に笑った。
「西崎! 貴様も、あいつらの仲間に這入れ! それが似合ってら!」
 高取の腕からは、頑固な拳がとび出しそうになった。
「そやないよ、そやないよ。ここで、そんなに、おこらんかてええやないか。……そら、衣笠の面相を見ろ、ぬれマラのようやないか。そら、ほんまに、ぬれマラのようやないか。」
 西崎は、話のたがをはずしてしまった。むしゃむしゃと向うの入口の方で、こちらの話には気がつかず、鑵肉をつついている厚唇の衣笠は、本当に、ぬれマラという感じだった。玉田は笑った。西崎の助平は有名なものだった。おかしいヒョウキンな奴だ。
 彼は、支那へ来たからには、チャンピーの味をみたいと望んでいた。それは、来る前からの望みだった。作業中にも、纏足の前がみをたらした、褐色や紫の支那服を着た女が通ると、そッとそれをぬすみ見た。手や脚が、とてもきゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]だった。
 工場の函詰の女工にも彼の心はひかれた。
 それは、美しくはなかった。ホコリと、煙と、燐に汚れていた。しかし、それは、日本人とは、どこかちがっていた。ちがった何ものかを持っていた。
 ちがったものが彼に刺戟となった。
「何かやってるぞ、おい、工場の奴が、何かやってるぞ。」
 飯を食って暫らく休んでいた。一人が、削った軸木を乾してある附近の騒ぎに目をとめた。工人が、思いきったいじめ方をされている。
「リンチだ、リンチだ!」
 内所《ないしょ》ごとのように柿本が声をひくめた。
「なに?」
「リンチだ、リンチだよ!」
 于立嶺《ユイリソン》という、肩の怒った、皮肉な顔つきの工人が、二人の把頭の腕の下で、頸をしめられた雄鶏のように、ねじられて、片足は、しきりに空を蹴っていた。
「監督が、爪の裏へ針をつき刺しているんだ。」
 貝形の爪が、指さきの肉と、しっかり膠着《こうちゃく》している。その肉と爪の間へ、木綿針をつきさしている。小指からはじめて、薬指、中指、人さし指に針をつきさゝれていた。二本の手は動かせないように、二人の把頭によって、しっかりと脇の下にからみつけられていた。
 工場の騒音をつんざいて、う――うッと唸る声がする。兵士達は、自分の生爪《なまづめ》をもがれるように身慄いした。
 于立嶺は、平生から社員に睨まれていた。頭のさげッぷりが悪かった。監督や、把頭が何か云っても、ふゝんと、うそぶいている。そんな男だった。それで殊に小山から睨まれていた。
 高取は、蛋粉工場においても、工人達が兵士の威嚇を受けて、すくみ上っているのを知っていた。そこでも社員のリンチが行われた。兵士達はそれを見た。そして、そういう私刑をやるのなら、工場の守備は御免を蒙る、と云い出した。
 その蛋粉工場の中隊は、内地でも有名な中隊だった。日清戦争にも、日露戦争にも全滅した歴史を持っていた。毎年、二、三カ月で、現役から、おっぽりかえされるシュギ者が不思議にも、二人か三人這入って来る。工場の社員が、軍隊を笠に着て、工人を虐待する心理を読むと、その中隊の兵士達は承知しなかった。
 ――そうだ、ここの奴等も、俺達を笠に着てやがるんだ。と高取は思った。くそッ! 人を馬鹿にしてやがら!
「貴様、このあいだの、賃銀をよこせと云ってきた時のように威張ってみろ!」と小山は呶鳴っていた。
「何だ、ひいひい泣きやがって、もう一度、あの晩のような、横柄な口を利いてみろ!」
「うむ、支那じゃ、職工を殴り殺すやつもあるときいとったが、やっぱりむちゃくちゃにやるんだな。」
 兵士は恐ろしいものに近づくように、ぼつぼつ、ぼつぼつと、軸木を拡げた蓆の間を縫って、現場へ近づいた。彼等は、ビンタを殴ったり、殴られたりはしたことがある。しかし、爪に針をつき刺すのは、見るのも今が始めてだ。錆びた針が、爪の根の白い三日月にまでつきさゝった。紫ずんだ血が、半透明の爪の下に、にじんでいた。
「こんな奴にちやほやする青二才があるから、のさばりやがるんだ。(これは幹太郎へのあてつけだ。)貴様、共産党の手さきであろうが!――工場が占領出来るんなら、占領して見ろ!……こらッ! もう一度、あの晩のような口はばったいことを、ぬかして見ろ!」
 小山は近づいてくる兵士達が、自分のうしろ楯《だて》だと意識した。
 怒りにゆがんだ彼の顔が、兵士たちの方へは、一寸、にこりとほころびた。
 が、于《ユイ》に向っては、すぐもとの通りにひきゆがんだ。
 職場で、工人達は、水を打ったようにしんとなって、耳を澄まし、仕事をつゞけていた。器械の動く騒音だけはつづいていた。
 ある者は、軸列機を動かす手を休めて、そッと、社員に発見されないように、窓のかげから、小山が、于のもう一方の拇指《おやゆび》に針を突き刺すのを見つめていた。やはり、それを見ている、気の弱い少年工は、自分が刺されるような気がして、顔をそむけた。
「貴様ッ、まだ、ふてぶてしくかまえていやがるんか!――李、今度は、濡皮鞭《ぬれかわむち》だ、濡皮鞭を持って来い!」
 小山のかんかん声がひゞいた。
 ノホホンをきめこんで、作業をつゞけていた工人までが、今度は、はッとした。手をとめ、お互いに顔を見合わした。于立嶺が、代表者の一人となって、賃銀支払の要求を突きつけた、そのかたき[#「かたき」に傍点]を打たれている。彼等は、それを知っていた。同時に、于、一人に、リンチを加えるだけでなく、工人全体をも嚇かしている意味を知っていた。――兵タイさえ、居なけゃ、俺等が、みんなが立ってやるんだ! と、心で泣いている者もあった。
「どうです、もう、いいかげんでよしてはどうです。」
 と、見ている兵士の柿本が云った。
 工人達は、小山の骨ばった手に握られた濡皮鞭を見て、裸体にひンむかれて、筋肉がぼろぼろにちぎれるほどしぶきをあげられる、場面を眼の裏に描いた。
 警察の拷問によくある場面だ。
 于の悲鳴と、小山の噛みつける声がも一度した。濡皮鞭が、物体に巻きついた。ピシリ。ピシリ。切れるような音だ。
 その時、豪放な、荒っぽい兵士がとび出した。
「よしやがれ! コン畜生! 出来そこないめ!」
 兵士は、小山の病的な横ッ面を張りとばした。濡皮鞭を持った小山の骨ばかりの手は、たくましい兵士の腕で、さかさまに、ねじ曲げられた。
「俺等が来とると思って、工人をひどいめにあわしやがったくらいにゃ、承知しねえぞ! ヒョットコ野郎奴!」
 小山は、あっけにとられた。
「叩き殺してくれるぞ。ヒョットコ野郎奴!」
 兵士は高取だった。

     一八

 後発部隊が到着した。寄宿舎は狭くなった。
 ベッドもなく、藁蒲団もなく、床の上に毛布をのばして、ごった寝にねた。高梁稈のアンペラが破れかけていた。下から南京虫がごそ/\と這い出してくる。
 南京虫は、恐らく、硫黄や、黄燐くさい、栄養不良な工人の病的な肌の代りに、どうしたのか急に、汗と脂肪《あぶら》ぎった溌剌たる皮膚があるのを感じて、いぶかしげな顔をしただろう。
 高取は、あとからきた者達と、暫くあわずにいた。その間の行程を、おたがいに話しあった。
 彼等は、門司から御用船に乗る際、同様にビラを拾っていた。それを胸のポケットへ、畳んで、お守りのように大事に、しのばしている者もあった。
「俺等が桟橋通りを歩いていたら、天からビラの雨が降ってくるじゃねえか。」と彼は笑った。
「上を向いたら、なんだ、組合の安川が窓から頸を出して、引っこめよう、としとるところだよ。――しっかりやって来い! と呼ぶから、どんなに、しっかりやるんだい! と云ってやったら、しっかり、あっちの連中と手を握って来い! とおらんでるんだよ。」
 のんきに、高らかな声を出した。
 傍へ特務曹長がきかゝった。誰かを呼びに来た。彼は「しっかり、チャンピーと手を握って行くかな。」
 と大声で、又笑った。
 無意識に破れかけのアンペラのはしを、ひきむしる彼の手は、マメだらけで、板のようにかたくなっていた。
「工藤は、とうとう、船の中で片づけられちまったよ。」尻眼で特曹に気を配りながら、木谷が囁いた。
「一人で意気まいたって駄目だからと、止めたんだがね、あいつ、多血質だから、きかないんだ。」
「今度は、なかなか労働組合や、俺等の反対に敏感になっている。」高取がしめつけられるように声をひくめた。「日独戦争や、シベリア出兵時代とは、時代が違うからね。俺等もブルジョアの手先に使われてたまるかい、くらいなこたア知ってるが、ブルジョアもまた、俺等の出兵反対に敏感になってる。三月十五日の検挙はやる、四月十日の左翼の三団体の解散は喰らわす。それから出兵。何から何まですべてが、ブルジョアの方が、はるかに用意周到で組織的じゃないか。」
「どんな障害を押しのけても、まっさきにここは占領しなけりゃならんと思ってるんだな。」
「そうだよ、そうだよ、支那を取るためにそう思ってるんだよ。」
「しかし、俺等は、俺等として出来るだけサボって邪魔をしてやるさ。鉄砲をうてと云われたって、みんなうたねえんだな。」
 だが、彼等は、まだ、自分たちの支配者を憎み、出兵に反対していたが、皆なが同じ一つの意見を持っているのではなかった。
 この現在の持場において俺等が、今すぐ、一箇師団を内地へ引き上げさし、支那から手を引かすことは、なし得ない。出来ない相談だ。しかし俺等は、俺等として仕事がある。如何に、軍隊が、俺等の目あてに反することに使われていようが、それだからと云って軍務を放棄してはいけない。俺等は、俺等が、本当に生れ出る日のために、市街戦を習っておくのだ。装甲自動車の操り方を習っておくのだ。その日のために戦うのだ。
 木谷は、小声で語った。高取は、半分頷き、半分かぶりを振った。
「その日のためにか。それはいゝ。しかし、君はいつも気が長いぞ。しかし、現在、吾々の眼前で、吾々の手で叩きつぶされつゝある支那の労働者はどうするか?」
 二人は、入営前まで、同じ工場で働いていた。木谷は、几帳面《きちょうめん》で、根気強い活溌な性質がとくをして、上等兵になっていた。
 高取は一年間の勤めを了えて、二年兵になったその日に、歩哨に立っている場所を離れて鶩《あひる》を追っかけまわした。そして軍法会議にまわされた。
 彼は、夕暮れに、迷《ま》い児《ご》となった遅鈍な鶩を、剣をつけた銃で突き殺そうとした。そして、追っかけた。
 練兵場から、古いお城の麓の柴山の中にまで、五町ほど、鶩を追って、追いこんでしまった。鶩は、ぶさいくな水かきのある脚を、破れるばかりにかわして、ひょくひょくした。とうとう突き殺せなくて、靴で踏みつぶした。彼はホッとした。そして長い頸を垂れた鶩の脚を提げて立ちあがった。その時、巡察将校に見つかってしまった。
 彼は、償勤兵となったことを、恥ずかしがりもしなければ、引けめに感じもしなかった。機械を使うのがすきだった。殊に、軽機関銃を使うのがすきだった。空砲射撃の時にでも、多くのよせて来る奴等を、この銃一ツで、雨が降り注ぐようにやッつけることを想像しながらタッタタタとやっていた。
 すこし馬鹿な、まがぬけた彼の性質が、みなの人気をあおっていた。
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