月も、一元の給料さえ、兵卒に支払わない、その督弁《トバン》の張宗昌は、城門附近で、自動車から、あわれげな乞食の親子を見て、扈従《こしょう》に、三百元を放ってやらした。張という男は、こんな気まぐれな男だった。
「鬼の眼に涙だ!」
 支那人達も、張宗昌をボロくそに、くさした。
 街の空気は、工場の工人達に、ひゞいてこずにはいなかった。
 あてがわれる機密費を、自分の貯金として、支那にいる間に、一と財産作って帰る腹の山崎は、M製粉や、日華|蛋粉《たんぷん》、K紡績、福隆|火柴公司《ホサイコンス》などを順ぐりに、めぐり歩いていた。
 金を出して、支那人から、あんまりあてにならない情報を一ツ/\買いとるよりは、実業協会の情報を、そのまゝ貰って、それで、報告のまに合わせる方が気がきいている。山崎は、それをやっていた。そして、あてがわれる金は、自分の懐へ取りこんだ。
 彼のポケットには、福隆火柴公司の社員の名刺がはいっていた。日華蛋粉の外交員の名刺も這入っていた。勿論、燐火の注文を取って来た、ためしもなく、用材の買い出しに行ったこともなかった。
 工場の出入口まで来ると彼は、そこで煙と塵埃と、不潔な工人や、鼻をもぎあげる硫黄の臭気に、爪を長くのばした手を鼻のさきにあてゝたじろいだ。今、ロシヤ兵と、別れて来たばかりだ。
 彼は話しも、顔の恰好も、歩きっ振りも、支那人と全く変らないのを自慢にしていた。手洟《てばな》をかんで、指についた洟《はな》をそこらへなすりつけるのは平気になっていた。上に臍のついた黒い縁なし帽子をかむり、服も、靴も、支那人のものを着けている。爪を長くのばしているのも、支那人の趣味を真似たのだ。たゞ、一ツ、彼の気づかない欠点は、白眼と黒眼のさかいがはっきりしすぎている尖った眼だ。これだけは、職業と人種とをどうしても胡麻化すことが出来なかった。どんよりと濁っている支那人とは違っていた。裏から裏をこそ/\とつゝいて歩く職業は、ひとりでに形となって外部に現れた。
 うぬぼれやの山崎は、自分の欠点を知らなかった。それについて面白い話がある。が、丁度、彼が作業場の入口へやってくると、そこへ幹太郎が、鼻のさきへ黄色いゴミをたまらして内部から出て来た。幹太郎は急ににこ/\笑って何か云った。
「何だね?」と山崎はきいた。
「とても面白い種ですよ。」
「何だね?」
「すぐ云いますがね。――云ったら、情報料をくれますか? 五円でいゝですよ。たった五円でいゝですよ。」
「出すさ、物によっちゃ出すさ。」
「呉れなけりゃ、山崎さん、儲かりすぎて、金の置き場に困るでしょう。」
 山崎は、唇から気に喰わん笑いをこぼした。
「何だね?」
「――土匪が出たんですよ。昨日、※[#「さんずい+樂」、第4水準2−79−40]口《ロンコー》の沼へ鴨打ちに行ったら、土匪がツカ/\っと、六、七人黄河の方からやって来たんですよ。」
 幹太郎は笑い出した。
 情報料は冗談だと云いたげな、罪のなげな笑い方をした。
「乗って行った自転車を打っちゃらかして逃げて来たんですよ。ケントの上等だったんですがな。」
 山崎は、出て来る苦笑をかみ殺していた。国家(?)の安否にも関係する重大なことをあさっているのに、何ンにもならんことで茶化すんねえ! そんな顔をした。それに気づいた幹太郎は、彼の方でも、次第に硬ばった、不自然な笑い方になった。
 そこへ、胴ぐるみの咳をつゞけながら小山が出て来た。
 一日分の請取り仕事を終った工人達は、色のあせてしまった顔で出口ヘやって来はじめた。幹太郎は、山崎と一緒に事務室へ歩いた。工人は一日の作業高を出勤簿に記入して貰う。食事札を受取る。そのどよめきと、せり合いが金属的な支那語と共に、把頭《バトウ》の机の周囲で起った。
 あたりは薄暗くなっていた。
「ここじゃ、相変らず温順そのものだな。」
 山崎は、もみ合っている工人達をじろりと一瞥《いちべつ》した。そしてささやいた。
「そこどころか、……幹部にまで不穏な奴があるんだから。」
 小山が答えた。
「ふむむ、総工会のまわし者がもぐりこんどるかどうかは、なか/\吾々日本人にゃ分からんもんだ。用心しないと。」
「なに、そんなもぐりこみなら、囮《おとり》を使やアすぐ分るさ。」
「ところが、此頃は、その囮に、又囮をつけなきゃあぶなくなっていますよ。」
「チェッ! 如何にも訳が分らねえや。」
 小山はつゞけて咳をした。そこらへ痰を吐きちらした。
 三人は事務室へ這入った。そこも燐や、硫黄や、塩酸加里などの影響を受けて、すべてが色褪せ、机の板は、もく目ともく目の間が腐蝕し、灰色に黝《くろ》ずんでいた。
 三円で払下げを受けた一|挺《ちょう》の古鉄砲を、五十円で、何千挺か張宗昌に売りつけた仲間の一人の内川は、憂鬱で心配げな暗い顔をして二重硝子の窓の傍に陣取っていた。その顔は、この工場と同じように、規則正しくかたまって、乾き切っていた。これが支配人である。
「なんだ、あんたが来ると馬鹿に大蒜《にんにく》くさいや。」
 内川はブッキラ棒に笑った。その笑い方までが乾燥していた。
「それゃありがたい。これで大蒜の匂いがすりゃ、支那人と一分も変りがないでしょう。どうです?」
 山崎は、自慢げに、幇間《ほうかん》のような恰好をした。
「自分でそう思っていれば、それが一番いゝや、世話がいらなくって。」
「我和中国人不是一様※[#「口+馬」、第3水準1−15−14]《ウンホツンゴレンブシイヤンマ》。怎※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]不一様《ソンモブイヤン》、那児有不一様的様子《ナアルブイヤンテヤンス》?」
 急に山崎は支那語で呶鳴った。どこが俺ゃ支那人と異うのだ――というような意味だ。しかし、それは、明かに冗談でむしろ、内川を喜ばす一つの手段の如く見えた。
 彼は、古鉄砲でウンと儲けた内川から約束通りのもの[#「もの」に傍点]をせしめようと念《こころ》がけていた。今にも出してよこすか、今か、今か、と待っていた。――幹太郎は、それを知っていた。
 それは、実に、見ッともないざまだった。
 彼は、飢《う》えた宿なしの犬のように、あらゆる感覚を緊張さして、どこでも、くん/\嗅ぎまわっていた。自分より新米の者の前では、すっかり、その本性の野獣性を曝露する小山は、支配人が居るとまるで別人になった。無口に、控え目になった。山崎は、内川に使われている人間でないだけ、まだ、無雑作で平気だった。しかしそれも、故意に無雑作をよそおっていた。無雑作のかげから、迎合する調子がとび出した。
 小山は、支配人が興味を持つことなら、もう十年間も土地《つち》を踏んだことのない内地の、新聞紙上だけの政治にも、なか/\興味をよせた。――よせた振りを見せた。
 彼は、内川の暗い顔を見て、すぐそれに反応した。
「めった、今度は去年あたりよりゃあいつ[#「あいつ」に傍点]らの景気がいいと思ったら、独逸が新しい武器を提供しとるそうじゃありませんか?」
「うむむ。」
 内川は唸った。
「どれっくらいですかな? その数量は?」
 今朝来たばかりの封書の口を引っぺがしてぬすみ見した。ぬすみ見して、その数量をも知っていた。それを、小山は、それだけは知らん振りをした。
「紅毛人は、やっぱし、教会だとか慈善だとか云ってけつかって、かげじゃなか/\大きな商売をやっているね。こちとらとは、桁《けた》が異うわい。」
「只の学校、只の病院なんて、まるっきり、奴等の手ですな。どうしても。」
「うむむ。」
「しかし、今度は、いくら精鋭な武器を持って蒋介石がやって来たって、大人《たいじん》の方でも背水の陣を敷いてやるでしょう。どちらかというと、大人の方が、どうしても負けられない戦じゃありませんか。」
 彼は、専門家の山崎の前で、一ツかどの意見を示したつもりだった。顔は得意げになった。山崎はそれに気づいた。
「古鉄砲の張宗昌が、新しい独逸銃に負けるっていう胸算用だな……」
「なに、張大人が勝ったって負けたって、何もかまいやせんじゃないか。そんなことまで、何も鉄砲を売った人間の責任じゃないですよ。」
 髯のない山崎は、その唇の周囲には皮肉げな、君達はこんなことを云ったり、こねたりする柄か! と云いたげな微笑を含めた。
「北伐軍にゃ、まだ/\政治部を出た共産党が、だいぶまじっとるんだよ。」内川は、にが/\しげに囁いた。「こいつだけは、いくら共産党狩りをやったって、どこまでもだに[#「だに」に傍点]のように喰いついとるという話だな。――そんな共匪どもがこの町を占領したらどうなるんだね?――一体、どうなるんだね?」
「共産党は空気ですよ。隙間のあるところなら、どこへだって這入りこんで行くんでさ。しかし、それよりゃ、僕は、北伐軍がここまで漕ぎつけて来るだけの力があるかどうか、それが見ものだと思ってるんだがな。そいつを見きわめて置く方が先決問題だと思ってるんだがな。」
「何で、それを見きわめるかね?」
「金ですよ。」と、山崎は冷笑した。「十万の大兵を動かすには、二十万元や三十万元あったところで、二階から目薬にもなりませんからな。」
「金なら、総商会で最初に四百万円、あとから二百万円出しとるさ。」
「へええ、それゃ、又、誤報じゃないですな?」山崎は、又、冷笑するような声を出した。が、鯛でも釣ったように喜んだのは、色あせた机にツバキがとんだので分った。
「たしかにそれじゃ六百万円出したんですな。……そんならやって来ません。大丈夫やって来ません。それは結構なこってすな。総商会が六百万円献金したというのは結構なこってすな。――なかなか結構なこってすな。」
 小山には、山崎が、馬鹿々々しくはしゃぐ理由がちょっと分らなかった。

     四

 内川は三ツ股かけと呼ばれていた。
 カタイ大ッピラな燐寸工場以外、硬派と軟派を兼ねているからだ。
 ここの硬派、軟派は、新聞社内の二つの区別じゃ勿論なかった。武器を扱う商売が硬派だった。そして、阿片、モルヒネ、コカイン、ヘロイン、コデイン等を扱う商売が軟派だった。
 すべて、支那人相手の商売である。
 広い、広い、渾沌《こんとん》たる支那内地に居住する外国人の多くは、この硬派か軟派かを本当の仕事としていた。英国人もそれをやった。フランス人もそれをやった。ドイツ人もスペイン人もそれをやった。そして一方では支那人を麻酔さした。痴呆症となし了《おわ》らしめた。他方では軍閥や匪徒に武器と弾薬を供給した。
 戦乱と掠奪と民衆の不安は、そこからも誘導された。
 内川は頑固な一徹な目先の利く男だった。馬の眼をくり抜くのみならず、土匪の眼玉だってくり抜いたかも知れない。彼は、物事に熱中しだすと、散髪する半時間さえ惜しがった。胡麻塩頭をぼう/\と散乱さしひげむじゃのまま、仕事に打ちこんでいた。工場へはよく暗号の電話がかかって来た。
 三号十八匹、今日、ツブシに到着。と言ってくれば、四千円は動かなかった。豚の鼻十、五目飯で焚き込み。と云えば、十挺の鉄砲と、それに相当する弾薬、所属品が売れたことだ。
 山崎は、こんな、内川の秘密を知っていた。
 いろいろな情報や、日々の変遷、事件が手に取るように速急に這入る機関があるだけでも、工場を兼ねていることは、内川に有利だった。支那の巡警や、鉄道員や、税関吏は、金持をせびって余得をせしめるのが昔からの習慣となっている。内川はそれをうまく利用していた。
「工場へ来とったって、どっちが本職だか分らねえんだからな。あんまり一人でうまい汁ばかり吸っていると、今に腹が痛みだすんだから。」
「それを云うなよ、君、それ、それを云うなよ。」
 内川は、なぞをかけようとする山崎を見抜いて、おどけたように頸をすくめ、手を振って、茶化しようと努めた。
「こいつはまるで、軽業の綱渡りだからね。まかりまちがえば、落っこちて死んじまうんだからね。本当にこうして坐っていたって、しょっちゅう、ヒヤ/\しているんだよ。」
「落っこちる人は、あん
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