来て呉れていないことを残念がった。
「しかし、物はなんでも比較の上の話ですよ。」
 幹太郎は、悪党に対して純なものの正しさを譲るまいと心がけながら云った。
「働くという点から較べると、日本人は到底支那人には及ばんですよ。それに、内地じゃ組合が出来たり、ストライキをやったりして労働者が、そうむちゃくちゃに、ひどい条件でこき使われて黙っちゃいなくなっていますよ。」
「そんなこた俺れゃ知らん。――そんなこたホヤホヤの君が知っているだけだよ。」小山は幹太郎がうぶいことを軽蔑した。「吾々が支那までやって来て、苦力のように働くってことがあるかね。吾々は奴等に仕事を与えているんじゃないか。ね。吾々が、こうしてこの土地に工場をこしらえなかったら、奴等は、ゼニを儲ける口もありゃせんのだよ。洋車《ヤンチョ》だって俺等が乗ってゼニを払わなかったら、誰れからゼニを貰うかね。それを、何を好んで、俺等が、奴等と同じレベルにまでなりさがって働くって法があるかい!そんなこた、それゃ、日本人の面汚しだぞ。」
「働くことが何で面汚しなんだ!」と幹太郎は考えた。「何てばかな奴だ。」
「もっと年を喰やア、君だって今に、分るんだ!」小山は呶鳴った。
 どうかした拍子に、田舎から、口を求めに出た男が、ひょっこりマッチ工場へ這入って来ることがある。
 垢に汚れた布団を肩に引っかけ、がらくたの炊事道具を麻袋《マアタイ》になでこんで、そいつを手にさげたままやって来た。巡警は前以って、内川の云いつけでそんな奴は門内に這入らせた。幹太郎がそういう奴の相手になった。
 内川は、幹太郎が支那語講座流の発音で話している間中、脇の方からその支那人を観察していた。
 おとなしくって、若い、丸々と肥えて、いくらでも働かし得る、そういう奴かどうかによって採否を決した。
 健康そうな、しかし、きれいではない、田舎出の若者が、一人採用される。と、その代りマッチ工場独特の骨壊疽《こつえそ》にかかった老人や、歯齦《はぐき》が腐って歯がすっかり抜け落ちてしまった勤続者や、たびたびの火傷《やけど》に指がただれ膿《う》んで、なりっぽのように、小さい物をつまみ上げることが出来ない女工が一人ずつ追い出されて行った。給料ぽッきりで。
 栄養不良と、日光不足(朝四時から夜七時まで作業)にもってきて、世界各国で禁止されている、最も有毒な黄燐を使うため、健康
前へ 次へ
全123ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
黒島 伝治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング