ない、出刃庖丁で頸をちょんぎったるんだ。それで、そしてその切れたあとへ犬の頸を持ってきてすげかえるんだ。今までえらそうにぶつ/\云っていた奴が、ワン/\吠えることだけしか出来ねえんだ。へへ、役員の野郎、犬になりやがって、ざま見やがれ!――あいつら、もと/\犬だからね。」
「ふむゝ。」
 彼等は、珍しがった。作り話と知りつゝ引きつけられた。
「俺等だって、賃銀を上げろ、上げなきゃ、畜生! 熔鉱炉を冷やしてかち/\にしてやるなんざ、なんでもねえこったからな。」
「うむ、/\。」
「いくら、鉱石が地の底で呻っとったってさ、俺達が掘り出さなきゃ、一文にもなりゃすめえ。」
 だが、そういう者は、よほどうまく、かげにまわって喋らないと、役員に見つかり次第、早速、山から叩き出されてしまう。

      二

 圧搾空気の鉄管にくゝりつけた電球が薄ぼんやりと漆黒《しっこく》の坑内を照している。
 地下八百尺の坑道を占領している湿っぽい闇は、あらゆる光を吸い尽した。電燈から五六歩離れると、もう、全く、何物も見分けられない。土と、かびの臭いに満ちた空気の流動がかすかに分る。鉱車《トロ》は、地底に這っている二本のレールを伝って、きし/\軋りながら移動した。
 窮屈な坑道の荒い岩の肌から水滴《しずく》がしたゝり落ちている。市三は、刀で斬られるように頸すじを脅かされつゝ奥へ進んだ。彼は親爺に代って運搬夫になった。そして、細い、たゆむような腕で鉱車《トロ》を押した。
 八番坑のその奥には、土鼠《もぐら》のように、地底をなお奥深く掘進んでいる井村がいた。圧搾空気で廻転する鑿岩機《さくがんき》のブルブルッという爆音が遠くからかすかにひゞいて来る。その手前には、モンペイをはき、髪をくる/\巻きにした女達が掘りおこされた鉱石を合品《カッチャ》で、片口《ヤネハカリ》へかきこみ、両脚を踏ンばって、鉱車《トロ》へ投げこんでいた。乳のあたり、腰から太股のあたりが、カンテラの魔のような仄かな光に揺れて闇の中に浮び上っている。
 そこには、女房や、娘や、婆さんがいた。市三より、三ツ年上のタエという娘もいた。
 タエは、鉱車《トロ》が軽いように、わざと少ししか鉱石を入れなかった。
「もっと入れても大丈夫だ。」
「そんな、やせがまんは張らんもんよ。」
「それ/\動かんじゃないの。」
 そして、鉱車《トロ》を脇から突っぱって手ご[#「手ご」に傍点]をした。
 鉱車は百三十貫ばかりの重量がある。手のさきや、肩で一寸押したぐらいではびくともしない。全身の力をこめて、うんと枕木を踏んばり、それで前へ押さなきゃならない。しかも力をゆるめるとすぐ止る。で、端から端まで、――女達のいるところから、ケージのおりて来るところまで、――枕木を踏んばり通さなきゃならなかった。
 彼は、まだ十五歳だった。時々、こんな、子供のなり[#「なり」に傍点]をして働いている自分をいとおしく思った。涙ぐんだ。親爺は六番坑で竪坑《たてこう》から落ちて来た坑木に脚をやられた。そして、三本脚の松ツァンと呼ばれる不具者になってしまった。
「俺ら、トロ押せねえだ。」市三は、坑内へおりて来るまで、自分の細い腕を危ぶんだ。
「……。」親爺は、燻った四畳半で、足のない脚だけ布団にかくして、悲しげな顔をしていた。
「トロ、なか/\重いだろう。」
「誰れも働く者がなきゃ、お芳さんのようにこの長屋を追い出されるんだ。追い出されたら、ドコへ行くべ。」
 息子は、親爺の眼に光ったものを見た。
 ――米も安いし、雑用もかゝらねえし、それに家賃は只だから、これで東京あたりの一円五十銭も二円もにかけ合うべ。――
 僅か七十銭の賃銀を、親じはこんな考え方で慰めていた。その只の長屋も、家に働く者がなくなれば追い立てをくうのだ。
 市三は、どれだけ、うら/\と太陽が照っている坑外《おか》で寝ころんだり、はねまわったりしたいと思ったかしれない。金を出さずに只でいくらでも得られる太陽の光さえ、彼は、滅多に見たことがなかった。太陽の値打は、坑内へ這入って、始めて、それにどれだけの値打があるか分ってきた。今は、蟻のような孔だらけの巨大な山の底にいる。昇降機《ケージ》がおりて来る竪坑を中心にして、地下百尺ごとに、横坑を穿ち、四百尺から五百尺、六百尺、七百尺とだん/\下へ下へ鉱脈を掘りつくし、現在、八百尺の地底で作業をつゞけている。坑外《おか》へ出るだけでも、八百尺をケージで昇り、――それは三越の六倍半だ――それから一町の広い横坑を歩かねばならない。
 井村は女達の奥で鑿岩機を操っていた。タガネが、岩の肌にめりこんで孔を穿って行くに従って、石の粉末が、空気に吹き出されて、そこら中いっぱいにほこりが立った。井村は鼻から口を手拭いでしばり、眼鏡をかけていた。黄色ッ
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