けた。急に心臓がドキドキ鳴りだした。彼は、それを押えながら、石がボロボロころげて来る斜坑を這い上った。
 六百尺の、エジプトのスフィンクスの洞窟のような廃坑に、彼女は幽霊のように白い顔で立っていた。
 彼は、差し出したカンテラが、彼女にぶつかりそうになって、始めてそれに気がついた。水のしずくが、足もとにポツ/\落ちていた。カンテラの火がハタ/\ゆれた。
 彼は、恋のへちまのと、べちゃくちゃ喋るのが面倒だった。カンテラを突き出た岩に引っかけると、いきなり無言で、彼女をたくましい腕×××××。
「話ってなアに?」
「これがあの、ひげのあいつに喰われようとしとった、その女だ!」
 カンテラに薄く照し出された女の顔をま近に見ながら彼は考えた。そして腕に力を入れた。女のあつい息が、顔にかゝった。
「つまんない!」彼女はそんな眼をした。
 しかし、敏捷に、割に小さい、土のついた両手を拡げると、彼の頸×××××いた。
「タエ!」
 彼は、たゞ一言云ったゞけだ。つる/\した、卵のぬき身のような肌を、井村は自分の皮膚に感じた。
 それから、彼等は、たび/\別々な道から六百尺へ這い上って行きだした。ある時は、井村がケージの脇の梯子を伝って這い上った。ある時は、五百尺の暗い、冷々《ひえ/″\》とする坑道を示し合して丸太の柵をくゞりぬけた。
 彼は、彼女をねらっているのが、技師の石川だけじゃないのに気がついた。監督の阿見も、坂田も、遠藤も彼女をねらっていた。
「石川さん、お前におかしいだろう。」
 井村は、口と口とを一寸位いの近くに合わしながら、そんなことを云ったりした。
「それはよく分っている。」
「阿見だって、遠藤だってそうだぞ。」
 彼女は、平気に肯いた。
「もし追いつめられたらどうするんだい。」
「なんでもない。」タエは笑った。「そんなことしたら、あの奥さんとこへ行って、何もかも喋くりちらしてやるから。」

      四

 五百米ばかり横に掘り進むと、井村は、地底を遠くやって来たことを感じた。何か事があって、坑外《しゃば》へ出て行くにも行かれない地獄へ来てしまったような心細さに襲われた。鉱脈は五百米附近から、急に右の方へはゞが広くなって来た。坑壁いっぱいに質のいゝ黄銅鉱がキラ/\光って見える。彼は、鉱脈の拡大しているのに従って、坑道を喇叭《ラッパ》状に掘り拡げた。が、掘り拡げて
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