の変化を田舎にいて一々知り得る由もないが、わけてもこの頃のあわただしさは、東京にいても、二三カ月仕事に打ちこんで新刊の雑誌新聞に目を通すひまなしにいようものなら、取り残されて分らなくなるのではあるまいか。
私は、バルザックとドストエフスキーが流行しだしたという言葉をきいてその頃離京したのだが、いまでは、この世界第一流の作家もかえりみる者がすくなくなっているだろう。田舎で流行にはずれていると、バルザックや、ドストエフスキーや、トルストイは、米の飯である。なんべん読みなおしてもあきることがない。
先日思いがけなくT君が帰省して、いろいろ東京の様子や、最近の文学の傾向や人々の動静をきくことができた。
その時、プロレタリア文学のことに話が及ぶと、T君は、いまどきプロレタリア文学などといったら、馬鹿か、気ちがいだと思われるよと笑い出してしまった。すくなくとも肚《はら》の底では考えていても、口に出していうものはないとのことである。
常に労働者と鼻突きあわして住み、また農産物高の半面、増税と嵩ばる生活費に、農産物からの増収を吐き出して足りない百姓の生活を目撃している者には、腑甲斐ない話だとそれは嘆ぜられるのだ。攻勢の華やかな時代にプロレタリア文学があって、敗北の闇黒時代に、それぞれちゃんと生きている労働者の生活を書かないのは、おかしな話だ。むしろ、こういう苦難の時代の労働者や農民の生活をかくことにこそ意義があるのではないか。
これも、しかし東京のことが分らない田舎者の感慨だろうか。
底本:「黒島傳治全集 第三巻」筑摩書房
1970(昭和45)年8月30日第1刷発行
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2006年1月27日作成
2006年7月2日修正
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