ような不思議な夜だった。
あくる日も、中山服は、やはり、その家の中にいた。こちらが顔を出すと、向うも、やはり窓から顔を出す。そして、昨日のように間が抜けたニコ/\笑いをして見せた。と、こちらも、それに対して、怒りを以てむくいることは出来なかった。思わず、ニタ/\と笑ってしまった。そういう状態がしばらくつゞいた。
お昼すぎ、飯盒で炊いた飯を食い、コック上りの吉田が豚肉でこしらえてよこしたハムを罐切りナイフで切って食った。浜田は、そのあまりを、新しい手拭いに包んで、××兵にむかって投げてやった。
「そら、うめえものをやるぞ!」と、彼は支那語で叫んだ。
「ようし!」
相手は答えた。
手拭いに包んだハムの片《きれ》が、支那兵の家に到る途中に落ちると、支那兵は、一時に、三人もころげるようにとび出してきて、嬉しげに罵りながらそれを拾った。今度は彼等がボロ切れに包んだものを出して見せた。
「酒が行くぞ!」向うから叫んだ。
「何だ?」相手の云う支那語は、早口で、こちらには分らなかった。が、まご/\しているうちに、ボロ切れに包んだものが風を切って、浜田の前に落ちた。中には、支那酒の瓶が入っていた。
深山軍曹は、それを喜ばなかった。浜田がビンの栓《せん》を取ると、
「毒が入って居るぞ!」と、含むところありげな眼をした。
「そんなこたない。俺れが毒みをみてやろう。」傍から大西が手を出した。
「いや、俺れがやる。」
浜田は、さきに、ガブッと一と口飲んでみた。そして、大西に瓶を渡した。大西は味をみると、
「ナーニ、毒なんか入って居るもんか、立派な酒だ!」
と舌つゞみを打った。
酒は、ビンから喇叭《ラッパ》のみにして、八人の口から口にまわった。兵士たちの、うまそうな、嬉しげな様子を見ると、とうとう深山軍曹も手を出した。そして、しまいには酔った。眼のふちが紅くなった。
次の晩には、もう、不安は、彼等を襲わなかった。附近で拾い集めてきた枯木と高梁稈を燃して焚き火をした。こんなとき、いつも雑談の中心となるのは、鋳物工で、鉄瓶造りをやっていた、鼻のひくい、剛胆な大西だった。大西は、郷里のおふくろと、姉が、家主に追立てを喰っている話をくりかえした。
「俺れが満洲へ来とったって、俺れの一家を助けるどころか家賃を払わなきゃ、住むこたならねえと云ってるんだ。×のためだなんてぬかしやがって、支那を×ることや、ロシアを××ることにゃ、××てあげて××やがって、俺れらから取るものは一文も負けずに、むしり取りくさるんだ。」
「うむ、ふんとだ!」
「満鉄がどれだけ配当をしたって、株を持たん俺れらにゃ、一文も呉れやしねえからな。」
特務曹長に、兵卒の思想についても気を配るように云い含められてきている深山軍曹は、話をほかへ持って行こうとした。
「よせ、よせ。そんなことは。」彼は、叱るように云った。
「俺ら、なにも、嘘を話してるんじゃねえんだ。有る通りを云ってるんだ。」
大西は、××にかまわなかった。
本隊を離れてしまった彼等には、×の区別も×の区別もなかった。恐れる必要もなかった。××と雖も、××の前には人間一人としての価値しかなかった。そして、××は、使おうと思えば、いつでも使えるのだ。九時すぎに、薪が尽きてきた。浜田は、昼間に見ておいた枯れ木を取りに、初年兵の後藤をさそった。
「俺ら、若しもの場合に、銃を持って行くから、お前、手ぶらで来て呉れんか。」と、浜田は、後藤に云った。「銃を持った日にや、薪は皆目かつがれやしねえからな。」
「大丈夫かい。二人で?」大西は不安げな顔をした。
「うむ、大丈夫さ」
だが、力の強い、鰹船に行っていた川井がすぐ、帯剣だけで立ち上った。
三人は、小屋から外に出た。一面に霜が降りた曠野は、月で真白だった。凍った大地はなお、その上に凍ろうとしていた。三人が歩くと、それがバリ/\と靴に踏み砕かれて行った。
一町ほど向うの溝の傍で、枯木を集めようとして、腰をのばすと浜田は、溝を距てゝ、すこし高くなった平原の一帯に放牧の小牛のような動物が二三十頭も群がって鼻をクンクンならしながら、三人をうかがっているのを眼にとめた。
「おい、蒙古犬だ!」
彼は思わず叫んだ。
初年兵の後藤が束ねた枯木を放り出して、頭をあげるか、あげないうちに、犬の群は突撃を敢行する歩兵部隊のように三人をめがけて吠えついてきた。浜田は、すぐ銃を取った。川井と、後藤とは帯剣を抜いた。小牛のように大きい、そして闘争的な蒙古犬は、物凄くわめき、体躯を地にすりつけるようにして迫ってきた。それは、前から襲いかゝってくるばかりでなく、右や、左や、うしろから人間のすきを伺った。そして、脇の下や、のど笛をねらってとびかゝった。浜田はそれまで、たび/\戦場に遺棄された支那兵が、蒙古
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