ザンに相違なかった。
 小村は、脚が麻痺したようになって立上れなかった。
「おい、逃げよう。」吉田が云った。
「一寸、待ってくれ!」
 小村はどうしても脚が立たなかった。
「おじるこたない。大丈夫だ。」吉田は云った。「傍《そば》へよってくりゃ、うち殺してやる。」
 でも、彼は慌《あわ》てゝ逃げようとした。だが、こちらの山の傾斜面には、民屋もなにもなく、逃げる道は開かれていると思っていたのに、すぐそこに、六七軒の民屋が雪の下にかくれて控えていた。それらが露西亜人の住家になっているということは、疑う余地がなかった。
 山の上の露西亜人は、散り/\になった。そして間もなく四方から二人を取りかこむようにして近づいて来た。
 吉田は銃をとって、近づいて来る奴を、ねらって射撃しだした。小村も銃をとった。しかし二人は、兎をうつ時のように、微笑《ほゝえ》むような心持で、楽々と発射する訳には行かなかった。ねらいをきめても、手さきが顫えて銃が思う通りにならなかった。十発足らずの弾丸は、すぐなくなってしまった。二人は銃を振り上げて近づいて来る奴を殴りつけに行ったが、間もなく四方から集って来た力強い男に腕を掴まれ、銃をもぎ取られてしまった。
 吉田は、南京袋のような臭気を持っている若者にねじ伏せられて、息が止まりそうだった。
 大きな眼に、すごい輝やきを持っている頑丈な老人が二人を取りおさえた者達に張りのある強い声で何か命令するように云った。吉田の上に乗りかぶさっていた若者は、二三言老人に返事をした。吉田は立てらされた。
 老人は、身動きも出来ないように七八本の頑固な手で掴まれている二人の傍《そば》へ近づいて執拗《しつよう》に、白状させねばおかないような眼つきをして、何か露西亜語で訊ねた。
 吉田も小村も露西亜語は分らなかった。でも、老人の眼つきと身振りとで、老人が、彼等の様子をさぐりにやってきたと疑っていることや、町に、今、日本兵がどれ位い駐屯しているか二人の口から訊こうとしていることが察しられた。こうしているうちにでも日本兵が山の上から押しかけて来るかもしれない。老人は、そんなことにまで気を配っているらしかった。
 吉田は、聞き覚えの露西亜語で、「ネポニマーユ」(分らん)と云った。
 老人は、暫らく執拗な眼つきで、二人をじろ/\見つめていた。藍色の帽子をかむっている若者が、何か口をさしはさんだ。
「ネポニマーユ」吉田は繰返した。「ネポニマーユ。」
 その語調は知らず/\哀願するようになってきた。
 老人は若者達に何か云った。すると若者達は、二人の防寒服から、軍服、襦袢《じゅばん》、袴下、靴、靴下までもぬがしにかかった。
 ……二人は雪の中で素裸体《すっぱだか》にされて立たせられた。二人は、自分達が、もうすぐ射殺されることを覚《さと》った。二三の若者は、ぬがした軍服のポケットをいち/\さぐっていた。他《ほか》の二人の若者は、銃を持って、少し距った向うへ行きかけた。
 吉田は、あいつが自分達をうち殺すのだと思った。すると、彼は思わず、聞き覚えの露西亜語で「助けて! 助けて!」と云った。だが、彼の覚えている言葉は正確ではなかった。彼が「助けて」(スパシーテ)というつもりで云った言葉が「有がとう」(スパシーポ)と響いた。
 露西亜人には、二人の哀願を聞き入れる様子が見えなかった。老人の凄い眼は、二人に無関心になってきた。
 向うへ行った二人の若者は銃を持ちあげた。
 それまでおとなしく雪の上に立っていた吉田は、急に前方へ走りだした。すると、小村も彼のあとから走りだした。
「助けて!」
「助けて!」
「助けて!」
 二人はそう叫びながら雪の上を走った。だが、二人の叫びは、露西亜人には、
「有難う!」
「有難う!」
「有難う!」
 と聞えた。
 ……間もなく二ツの銃声が谷間に轟き渡った。
 老人は、二人からもぎ取った銃と軍服、防寒具、靴などを若者に纏めさして、雪に埋れた家の方へ引き上げた。
「あの、頭のない兎も忘れちゃいけないぞ!」

      六

 三日目に、二個中隊の将卒総がゝりで、よう/\探し出された時、二人は生きていた時のまゝの体色で凍っていた。背に、小指のさき程の傷口があるだけであった。
 顔は何かに呼びかけるような表情になって、眼を開《あ》けたまゝ固くなっていた。
「俺が前以て注意をしたんだ、――兎狩りにさえ出なけりゃ、こんなことになりゃしなかったんだ!」
 上等看護長は、大勢の兵卒に取りかこまれた二人の前に立って、自分に過失はなかったものゝように、そう云った。
 彼は、他の三年兵と一緒に帰らしておきさえすればこんなことになりはしなかったのだ、とは考えなかった!
 彼は、二個の兵器、二人分の被服を失った理由書をかゝねばならぬことを考えていた。
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