頭さんが書きとめたけんど、これ二反はあとから借ってつけとらんの。……」
「何だって?」
「この二反も、一と口ことわっとかにゃ悪いと思うて、待ちよったけれど、客が仰山《ぎょうさん》居って旦那も番頭も私なんどにゃ見向いても呉れんせに、黙って借って来たん……。」彼女は弁解するようにつゞけた。
「それでどうするんだ?」
「……」
「向うに知らんとて、黙って取りこむ訳にはいかんぜ。」
お里は何か他のことを二言三言云った。その態度がひどくきまり悪るそうだった。清吉は、自分が云いすぎて悪いことをしたような気がした。
お里は、善良な単純な女だった。悪智恵をかっても、彼女の方から逃げだしてしまうほどだった。その代り、妻が小心で正直すぎるために、清吉は、他人《ひと》から損をかけられたり儲けられる時に、儲けそこなって歯痒《はが》ゆく思ったりすることがたび/\あった。
彼は二十歳前後には、人間は正直で、清廉であらねばならないと思っていた。が今では、そんなものは、何も役に立たないことを知っていた。正直や清廉では現在食って行くことも出来ないのを強く感じていた。けれでも彼は妻に不正をすゝめる気持にはなれなかった。
四
お里が家から出て行ったあとで、清吉は、眼をつむって妻の心持を想像してみた。彼には、お里が子供のように思われた。久しく同棲しているうちに、彼は、妻の感覚や感情の動き方が、隅々まで分るような気がした。
妻が見せた二反は、彼は一寸見たきりだったが、如何にも子供がほしがりそうなものだった。彼女は、頻りに地質もよさそうだと、枕頭《まくらもと》で呟いたりしていた。子供がほしいものはまた彼女のほしいものだった。
頭のもが[#「もが」に傍点]/\は、濃くなって、ぼんやりして来るかと思うと、また雲が散るように晴れて透き通って来たりした。彼はとりとめもないことを、想像していた。想像は、一とたび浮び上って来ると、彼をぐい/\引きつけて行った。それは、彼の意志でどうすることも出来なかった。彼はただ従僕のように、想像のあとについて、引きずりまわされた。
想像は、いつのまにか、彼を丸文字屋の店へ引っぱって行っていた。丸文字屋へは、金持ちの客が沢山行っている。と、そこに、お里もしょんぼり立っていた。彼女は、歩くことまで他人《ひと》に気兼しておび/\していた。自分の金で品物を買うのに
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