後年、網元の嘉平と利吉は、落ちぶれて死んじゃったが、その時は気持がよくって胸がすっとした。
鰯網が出ない時には、牛飼いをやった。又牛の草を苅りに出た。が、なか/\草は苅らずに、遊んだり角力を取ったりした。コロ/\と遊ぶんが好きで、見つけられては母におこられた。祖母が代りに草苅りをしてくれたりした。
十五六になった頃、鰯網は、五六カ月働いて、やっと三四十円しか取れなかったので、父はそれをやめて、醤油屋の労働をすることになった。僕は、鰯網の「アミヒキ」もやった。それから、醤油屋の「ゴンゾ」にもなった。十九の秋だったか、二十の秋だったか東京へ来た。そこで、三河島にあった建物会社というところへ這入って働いた。ヤマカン会社で、地方のなにも知らん慾ばりの爺さんどもを、一カ年五割の配当をすると釣って金を出させ、そいつをかき集めて、使いこんで行くというやり方だった。ジメ/\した田の上に家を建てゝ、そいつを貸したり、荷馬車屋の親方のようなことをやったり、製材所をこしらえたりやっていた。はじめのうちは金が、──地方の慾ばり屋がどんどん送ってよこすので──豊富で給料も十八円ずつくれたが、そのうち十七円に
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