っかえしてきた。
 呉は、左の腕を捩《ね》じ曲げるように、顎の下に、も一方の手で抱き上げ、額にいっぱい小皺《こじわ》をよせてはいってきた。
「早や行ってきたのかい?」
 腰の傷の疼痛《とうつう》で眠れない田川は、水を飲ましてもらいたいと思いながら声をかけた。
「火酒は残っていねえか? チッ! 俺れもやられた!」
「やっぱし、あしこのところからはいろうとしたのか?」
「いや、ずっと上へ廻ったんだ。ところがそこにも警戒兵がいた」
「どこにだって警戒兵はいるさ。番をするのはあたりまえだ」
「ふーむ、ふーむ、みごとにうたれちゃった」
 呉清輝はうたれたのが愉快だというような声を出した。
 火酒は、戸棚の隅に残っていた、呉は、それを傷口に流しかけた。酒精分が傷にしみた。すると、呉は、歯を喰いしばって、イイイッと頸を左右に慄《ふる》わした。
「何て、縁儀《えんぎ》の悪いこっちゃ、一と晩に二人も怪我をしやがって! 貴様ら、横着をして兵タイのいるいい道を選って行っとるんだろう。この荷物は急ぐんだぞ。これ、こんな催促《さいそく》の手紙が来とるんだぞ!」
 朝、深沢洋行のおやじは、ねむげな眼に眼糞をつけて支那人部屋にはいってきた。呉清輝と田川とは、傷の痛さに唸りながら、半ば、うつらうつらしつつ寝台に横たわっていた。おやじは、いきなり、ペーチカの横の水汲みの石油鑵を蹴《け》とばした。
「この荷物は急ぐんだぞ。これ、こんな催促の手紙が来とるんだぞ!」
 クヅネツォフからの暗号の手紙を田川の頭のさきで振りまわした。それには、アルファベットとアラビア数字がきれぎれに、一字一字、全部で三十字ほど折れ釘のように並んでいた。クヅネツォフは、対岸の、北の村に住んでいる富農だ。パン粉を買い占めたり、チーズを買い占めたり、そして、それを労働者に高くで売りつける。そんなことを常習のようにやっている男だ。みんなに毛ぎらいされていた。
「へへ、自分で持って行くがええや」
 おやじが去ったあとで、呉清輝は呟いた。
 田川は、これまで生きてきた日本の生活よりも、また、北満の河の北方側の生活よりも、河のかなたの生活の方がはるかにいいと心から思うことがたびたびあった。理屈ではなかった。街を歩いていると彼と同年くらいのロシアの青年たちの暗い影がちっともない顔を見てそう思うのだ。大またに、のしのしとまったく心配なげな歩きッ
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