た。
 晩におそくなって、彼は、それを新聞紙に包んで丘を登った。石のように固く凍《い》てついている雪は、靴にかちかち鳴った。空気は鼻を切りそうだ。彼は丘を登りきると、今度は向うへ下った。丘の下のあの窓には、灯がともっていた。人かげが、硝子《ガラス》戸《ど》の中で、ちらちら動いていた。
 彼は歩きながら云ってみた。
「ガーリヤ。」
「ガーリヤ。」
「ガーリヤ。」
「あんたは、なんて生々しているんだろう。」
 さて、それを、ロシア語ではどう云ったらいいかな。
 丘の下でどっか人声がするようだった。三十すぎの婦人の声だ。それに一人は日本人らしい。何を云っているのかな。彼はちょいと立止まった。なんでも声が、ガーリヤの母親に似ているような気がした。が、声は、もうぷっつり聞えなかった。すると、まもなくすぐそこの、今まで開いていた窓に青いカーテンがさっと引っぱられた。
「おや、早や、寝る筈はないんだが……」彼はそう思った。そして、鉄条網をくぐりぬけ、窓の下へしのびよった。
「今晩は、――ガーリヤ!」
 ――彼が窓に届くように持って来ておいた踏石がとりのけられている。
「ガーリヤ。」
 砕かれた雪の破片が、彼の方へとんで来た。彼の防寒|外套《がいとう》の裾のあたりへぱらぱらと落ちた。雪はまたとんできた。彼の背にあたった。でも彼は、それに気づかなかった。そして、じいっと、窓を見上げていた。
「ガーリヤ!」
 彼は、上に向いて云った。星が切れるように冴えかえっていた。
「おい、こらッ!」
 さきから、雪を投げていた男が、うしろの白樺のかげから靴をならしてとび出て来た。武石だった。
 松木は、ぎょっとした。そして、新聞紙に包んだものを雪の上へ落しそうだった。
 彼は、若《も》し将校か、或は知らない者であった場合には、何もかも投げすてて逃げ出そうと瞬間に心かまえたくらいだった。
「また、やって来たな。」武石は笑った。
「君かい。おどかすなよ。」
 松木は、暫らく胸がどきどきするのが止まらなかった。彼は、武石だと知ると同時に、吉永から貰った金で、すぐさま、女の喜びそうなものを買って来たことをきまり悪く思った。「砂糖とパイナップルは置いて来ればよかった。」
「誰れかさきに、ここへ来た者があるんだ。」と武石が声を落して窓の中を指した。「俺れゃ、君が這入ったんかと思うて、ここで様子を伺うとったんだ
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