すよ。」
「笑つたのだと」と、学士は問うた。
「えゝ。愉快がつたのです。」
「愉快がつたのだと。」
「非常に喜んだのです。一体。」
「ひひひ」と、学士が忽然笑ひ出した。
 患者はなんとも判断し兼ねて、黙つてゐる。併し学士はもう患者なんぞは目中に置いてゐない。笑つて笑つて、息が絶え絶えになつてゐる。そこで腰を懸けて、唾を吐いて、鼻を鳴らした。鼻目金が落ちた。黒い服の裾が熱病病みの騒ぎ出した時のやうに閃いてゐる。顔はゴム人形の悪魔が死に掛かつたやうに、皺だらけになつてゐる。
「五千年でかい。ひひひ。こいつは好い。こいつは結構だ。ひひひ。」
 患者は学士を見てゐたが、とうとう自分も笑ひ出した。初めは小声で、段々大声になつて笑つてゐる。
 そんな風で二人は向き合つて、嬉しいやうな、意地の悪いやうな笑声を立てゝゐる。そこへ人が来て、二人に躁狂者《さうきやうしや》に着せる着物を着せた。



底本:「鴎外選集 第十五巻」岩波書店
   1980(昭和55)年1月22日第1刷発行
初出:「東亜之光 五ノ九」
   1910(明治43)年9月1日
入力:tatsuki
校正:ちはる
2002年3月5日
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