いなかった。これはこの修道院にとっては重大な問題であった。というのは、この修道院にはこれまで何一つ有名なものがなかった。聖僧の遺骨もなければ、世間に知られた霊験あらたかな聖像もなく、国史に縁のあるすばらしい伝説もなければ、歴史的勲功とか祖国に対する忠勤とかいうものもない。それにもかかわらず、この修道院が隆盛をきわめて、ロシア全体にその名をうたわれたのは、ひとえにこの長老たちのおかげであった。彼らの謦咳《けいがい》に接せんがために、ロシアの全土からおびただしい巡礼が、千里の道を遠しともせず、群れをなしてこの町へ流れこんで来るのであった。では長老とは何者かというに、これは人の霊魂と意志とをとって、自己の霊魂と意志とに結合させるものである。人はいったんある長老を選み出したら、全然おのれの意欲を断ち、全幅の服従と絶対の没我とをもって、これに自己の意志を預けるのである。こうして自己を委託した人は、長い試練の後に自己を征服し、かつ制御する日の来るのを期待して、甘んじてこうした試練、こうした恐ろしい『人生の学校』を迎えるのである。この全生涯の苦行を通じて、やがて完全なる自由、すなわち自我の開放に到達する。そして全生涯をいたずらに過ごして、ついに自己を発見することのできない人々と運命を共にすることを免れ得るのである。この発案、すなわち長老制度というものは、けっして理論的のものではなく、実践上東方に端を発してから、現代においてはすでに千年の古い経験を経ている。長老に対する義務は、いつの時代にもわが国の修道院にあったところの、普通の『戒律』とはおよそ趣を異にしている。ここに認められるものは、行に服する者の永久の懺悔《ざんげ》である。結ぶ者と結ばれる者とのあいだの断つべからざる結縁のきずなである。たとえばこんな話がある。キリスト教として古い古い昔のことが、こうした一人の道心が、長老に課せられたある行を果たさないで、修道院を去って他国へおもむいた。それはシリアからエジプトへ行ったのである。そこで長いあいださまざまの偉大な苦行を積んだ結果、ついに認められて信仰のための拷問《ごうもん》を受け、殉教者として死に就《つ》くこととなった。すでに教会が彼を聖徒と崇《あが》めて、そのからだを葬ろうとした時であった、『許されざるものは出でよ!』という助祭の声が響き渡ると同時に、殉教者のからだを納めた棺《かん》が、その場から動き出して、寺の外へ投げ飛ばされた。これが三度までくり返されたのである。その後ようやく、この聖い殉教者が戒律を破って、自分が長老のもとを立ち去ったために、たとえ偉大な功績があったにしても、長老の許可なくしては罪障を免れることができない、ということがわかった。そこで、呼び迎えられた長老がその戒律を解いたので、やっと埋葬を終えることができたということである。もちろんこれはほんの昔話であるが、ここについ近ごろの事実談がある。わが国の現代のある修道僧がアトスの地で修行をしていたが、突然、長老から、彼が聖地として、また穏かな避難所として、心の底から愛着していたアトスの地をすてて、聖地巡礼のためまずエレサレムにおもむき、それからロシアに引き返して、『北の端なるシベリアへ行け、おまえの住むべき場所はあちらなのだ、ここではない』と命ぜられた。思いがけない悲しみに打ちのめされた僧は、コンスタンチノープルへおもむき、全キリスト教大僧正のもとへ出頭して、自分の服従義務を解除してくれるように嘆願した。すると、大僧正の答えるには、単に大僧正たる自分にそれができないばかりでなく、いったん長老に課せられた戒律を解き得る権力は、世界じゅうのどこにもない。否あり得ない。それができるのは、戒律を課した当の長老あるのみだ、とのことであった。こういう次第で、長老というものはある一定の場合において、限りのない、不可思議な権力を賦与《ふよ》せられているのである。わが国の多くの修道院で、初めのうち長老制度が迫害をこうむったのは、これがためである。けれども、間もなく長老は、民間で非常に高い尊敬を受けるようになった。たとえば当地の修道院の長老のもとへも、庶民と貴族の別なく、等しく長老の前へ身を投げ出して、めいめいの懐疑や罪悪や苦悩を懺悔して、忠言と教訓を乞うために群がり集まったのである。これを見た反長老派の連中は、さまざまに非難を浴びせると共に、ここでは懺悔の神秘が専断軽率に貶《おと》し卑しめられていると告発した。――ところが、道心なり俗人なりが、絶えず自分の内心を長老に打ち明けるに際して、なんら神秘らしいところはないのである。しかし結局、長老制度は維持されてきて、しだいしだいにロシアの修道院に根をおろすに至った。もっとも奴隷状態から自由と精神的完成とに向かって、人間を更正させるところの、すでに千
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