わけだ。ところで、もしわしを鉤にかけて引きずりこまないとしたら、そのときはどうだろうな、いったい、この世のどこに、真理があるというんだ? Il faudrait les inventer(ぜひとも作り出さにゃならんのだ)ことさらにその鉤をわしのために、わし一人のためにな、なぜと言って、とてもおまえにはわかるまいが、アリョーシャ、わしは実になんとも言えん恥知らずだからな!……」
「でも地獄には鉤なんかありませんよ」と父を見つめながら、静かにまじめにアリョーシャは答えた。
「そうだとも、そうだとも、ただ鉤の影ばかりなんだ、知ってるよ、知ってるよ。あるフランス人が地獄のことを書いておるが、全くそのとおりなんだ、J'ai vu l'ombre d'un cocher'qui avec l'ombre d'une brosse frottait l'ombre d'une carosse(わたしは見た、刷毛の影にて馬車の影を磨く御者の影を)だ。しかし、おまえはどうして鉤がないってことを知ってるんだい? 少しのあいだ坊さんたちの中へはいっておったら、そんなことも言わなくなるだろうが。しかし、まあ行くがいい、そして善知識になるがいいぞ。そうなったら、わしのところへ来て話して聞かしてくれ。なんといっても、あの世の様子が良く知っていさえすれば、そこへ行くのも楽なわけだからな。それに、おまえも、のんだくれの親爺や娘っ子どものそばにいるよりは、坊さんたちのところにいたほうが身のためだから……、せめておまえだけは、天使のように、なんにもさわらせたくないよ。いや、あすこへ行けば、おまえもさわるものがなかろう。わしがおまえに許しを与えるのも、つまりは、それを当てにするからなんだよ。おまえの心はまだ悪魔に食われておらんからな。ぱっと燃えて、消えて、それからすっかり以前のからだになって、帰って来るがいい。わしはおまえを待っておるぞ。実際、世界じゅうでこのわしを悪く言わないのは、ただおまえ一人きりだからな、それはわしも感じとるわい。本当に感じとるとも、実際、それを感じないわけにはいかんじゃないかえ?……」
そして、彼はすすりあげて泣きだしさえした。彼は感傷的であった。悪党ではあったが、同時に感傷的な人間でもあった。
五 長老
おそらく、読者の中にこの青年を、病的な、われを忘れてしまうほど感じやすい、生まれつき発育のよくない、貧弱な痩《や》せ衰えた人間で、青白い顔の空想家だろうと、考えられるかたがあるかもしれぬ。ところが、その正反対で、そのころのアリョーシャは堂々たる体格に、ばら色の頬をして、健康に燃えるような明るい眸《ひとみ》の、二十歳の青年であった。そのころの彼はむしろ非常な美貌の持ち主であった。すらりとした中肉中背で、黒みがかった亜麻色の髪に、輪郭の正しい、しかもこころもち長めの卵なりの顔、大きく見はった濃い灰色の眼――概して考え深そうな、見たところは、いかにも落ち着いた青年であった。あるいは、ばら色の頬も、狂的信仰や神秘主義の邪魔にはならない、という人があるかもしれないが、しかし、自分には、むしろアリョーシャが誰にもまして真のレアリストではないかと思われる。それはなるほど、修道院へはいってから、彼はすっかり奇跡を信じたのには相違ない。しかし、自分の考えでは、奇跡はけっしてレアリストを困惑させるものではない。奇跡がレアリストを信仰に導くのではないからである。真のレアリストは、もし彼が不信者であるとすれば、常に奇跡を信じない力と才能を持っているのである。そして、もし奇跡が否定するべからざる事実となって現われた場合には、彼は奇跡を許容するよりも、むしろ自分の感覚を信じまいとする。けれど、いざ奇跡を許容するとなれば、きわめて自然な事実でありながら、今まで知られずにいた事実として許容するのである。レアリストにあっては、信仰が奇跡から生まれるのではなくて、信仰から奇跡が生ずるのである。もしひとたびレアリストが信仰をいだいたならば、まさしくその現実主義を通じて、必ず奇跡をも許容せざるを得ないのである。使徒トマスも、見ないうちは信じないと言い張ったが、いよいよ見たときは、『わが主よ、わが神よ!』と言った。これは、奇跡が彼を信じさせたのだろうか? おそらくそうではなくて、彼がただ信じたいと望んだればこそ、信ずることができたのであろう。たぶん彼が『見ないうちは信じない』と頑張ったときすでに、自己の存在の奥底では、完全に信じていたのかもしれない。
あるいはまた、アリョーシャは鈍な人間で、精神の発達も不十分で、学業も全うしなかったのだ、などという人がないとも限らない。彼が中学を卒業しなかったのは事実であるが、しかし、彼を鈍な人間だのばかだのというのは、たいへんな間違いで
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